[暮らしっ句]寒 雀 2[俳句鑑賞]
寒雀 群れより一羽 吾が前へ 松崎鉄之介
喪明けとはさみし 餌に寄る寒雀 服部幸
前の句は、さみしい思いをしている作者のもとに「寒雀」がやってきてくれた…… そんな気がしたということだと思います。
いっぽう後の句の「寒雀」は「喪明のさみしさ」を表現するための材料。
二つの句にはそんな違いはありますが、「寒雀が自分のさみしさに反応してくれたみたいだ」という受け止め方は共通しているように思います。
問題はそれが偶然のことなのか、まがいなりにも心が通じたのかという点。
句の表現としては「雀がまるで気持ちをわかってくれたようだ」としつつ、それは自分(作者)の主観だと装っている。世間を憚ってのことだと思います。
でも、本心では「気持ちを察してくれた」という思いが強いのではないでしょうか。だから「寒雀」なのだと。わたしにはそう解釈されました。
「寒雀」は大変な困難の中を生きているわけで、苦労への感受性がとても強くなっている(はず)。だから、人間を警戒する気持ちよりも、とっさに親近感が強く働いた…… そんな仮説が思い浮かびました。
愛はすべてを超えるとか云いますが、つらさへの共感も「雀」と「人間」の垣根を取り払ってくれた!
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淋しさを語らぬ母や 寒雀 清原彰子
冬眠する動物が丸々と肥えて冬を迎えるのに対して、「寒雀」の「丸々」は羽根を膨らませているだけ。中身は正反対の痩せっぽっち。
(お母さん、あなたが装っているその平静も「寒雀」のような虚勢なの?)
しかし、「淋しさを語らぬ」静的な態度と「虚勢」では釣り合いません。強いて云えば、お母さんにはうつ病の初期段階の恐れさえ感じられます。カラ元気ではなくて、もうギリギリのところで踏みとどまっている感じ。作者もおそらくそれを察知した。だから「寒雀」を重ねたのだと思います。
じゃあ、どうして素直に手を差し伸べないのか?
ことはお母さん一人の努力で解決できることではありません。助けられるとしたら作者なんです。どうやら、そのあたりにこの句の本質が潜んでいるようですね。要するに介護問題。
今、手を差し伸べれば要介護になる日を先に延ばすことが出来るかもしれない。それは寿命にもつながる。でも、それを意識すればプレッシャー。
介護を経験すればわかりますが、やることは山のようにあり、きりがないほど。下手すれば介護者が倒れてしまう。でも、余裕をもった介護だと後ろめたい気がする。そうやって自分をつい追い込んでしまうわけですが、疲れれば、それが態度に出てしまう。やることやっても態度は不機嫌。それどころがキツイ口調で要介護者を責めたりする…… その繰り返し。
作者はまだそこまでは行ってないと思いますが、すでに心はそれを先取りしているのではないか。
「ねえ、どうして弱音を吐かないの?」という云い方は、自分の責任を棚上げするものだからです。
おそらく実態は「わたしが、こんなだから、云いたいことも云えないのね……」だと思います。
それは作者も内心わかっている。でも、そう云えば矛先が自分に向く。重い苦しい。だから「淋しさを語らぬ母」と、お母さん自身に問題があるかのようにスリ変える。
しかし、スリ替えても問題は解決しないわけで、気持ちは晴れません。先送りにすれば事態が悪化していく……
そう読み解いていくと「寒雀」はお母さんのことではなく、作者自身に重なります。本当は自分にも問題がある。でも、考えたくない。その偽装が「寒雀」。
意識して表すことと、意図せず滲み出てしまうこと……。
表現力が上がれば上がるほど、意識していなことまで作品化することになるのでしょうか。だからこそ、鑑賞する側もおもしろいのかもしれません。
※介護者にはきつい云い方になってますが、「介護の場」だと、こんな云いた方はしません。介護者には「極力、ラクをして下さい。介護者あっての要介護者ですから」とアドバイスします。
それはそれ。これはこれ。宇宙は一つじゃない~(←先端科学の知見)
出典 俳誌のサロン 歳時記 寒雀
寒雀
ttp://www.haisi.com/saijiki/kansuzume.htm
見出し画像は、AIで生成した「雀」。
百点近く描かせたんですけど、これが一番マシ。
鳥は苦手のようです。いろんな鳥や鳥モドキが出てきました~
ということで、これは「寒雀」ではありません。ごめんなさい。