[介護Tips]ケンカ介護の途中経過
長く施設で働いていると、本当にケンカすればどうなるのか、という疑問が積もります(わたしだけ?)。それを試せるのが、家族介護。
現在、幸運?にも家族の認知症が進みまして、念願?のケンカ介護を実践中…… その現場レポートです~
最初の頃は、ケンカの後にやさしい時間が生まれました。
いいように解釈すれば、ケンカも一つの濃厚なコミュニケーションであり、要介護者のさみしさその他の隙間が埋められたのではないかと。
それなら、適度のケンカは効果的ということになりますが……、
諸行無常。事態は同じところに留まってはくれませんでした。
短期記憶がほとんどなくなると、食べたことを忘れるように、ケンカしたことを忘れる。つまり、激しくやりあっても、その後の平和が長く続かず、すぐにまたケンカの前の状態に戻るように……。
ケンカの前の状態とは、要するに、要介護者がやってはいけないことをやる→注意する、ということです。
介護の経験者なら先刻ご承知の細々としたことです。食事を例にすると、調味料を何度もかける。よく噛んで呑み込むのが面倒になり、茶で流し込む。汁気のあるものはすする→むせる、とかです。
調味料に関しては、辛くなるからわかるだろうというものですが、反応が遅れるから、度を過ぎてから気づく。これは服についてもそうです。寒い→気重ねする、しばらくして、暑い! どんどん脱いで→ヘックション!
ほっとけば、機械のように繰り返します。それは見事なものです。というわけで、好きにさせてはおけないのです。(※調味料は、こちらでかけておくことにしました。自主性、作業機会を尊重してきましたが方針転換)
ところが、頃合いで止めると、当人の感覚では「まだ」ですから、怒り出す。それはそれは、ものすごい形相、希薄で迫ってきます。ケンカ対応とは、それに同じ調子で応えるということです。
以前は、一度、ケンカすると効果がしばらく持続したのですが、それがあっさりと蒸発するようになりました。こっちのほうが疲れる……。何しろ、覚えている者にとっては同じ繰り返しはきつい。
徘徊が、疲れ知らずで山も越えるとか云いますが、たぶん同じこと。体力は消耗しているのに自覚されないから。ぶっ倒れるまでいく。火事場の馬鹿ヂカラなのでしょう。
実はこの記事を書く前に、そのような状況に出口はあるのか? という記事を書きかけていました。
このままどんどんひどくなって、衰弱して死ぬのか。
それとも、死ぬ前には束の間でも、明るいところに出るのだろうかと。
しかしまた状況が変わってきて、ケンカがはじまっても、要介護者の注意が持続しなくなってきた。馬鹿ヂカラ・モードよりも、集中力の衰えのほうが勝るようです。
実際、コーヒー豆をするのを頼んでも、以前は五分くらいはやってたのに、今やハンドルを数回まわしてやめてしまうという有様。食事中にも他のことに手を出そうとしますしね。集中が持続しないというか注意が散漫。自分とは関係のないことに関心を向ける……。これね、深読みすれば、一種の防衛行為じゃいかと。
自分のことに意識を向けるとつらいわけですよ。出来なくなったことが多いどころか、できることが少ない。やることを思いつかない。何もしないとそれも不安。
以前は良く整理をしようとしてましたが、物を引っ張り出して広げるだけ。整理も出来なければ、元に戻すことも出来ない。その繰り返しで、さすがに大掛かりなことはやらなくなったのですが、代わりにやることがない。他に注意を向ければ、自分のこと忘れられるんでラクなんだと思います。
防衛行為、防衛本能ということでいえば、もう一つ脳内で起こっていそうなのが、ドーパミンとかセロトニンの大量分泌。ぽつんと所在なしげにいたかと思うと、鼻歌交じりにトイレに立ったりしますから。
ここにきてそれが、ケンカの途中で起こるようになった。
切り替え、はやっ! です。今はこうやって冗談めかして書いてますが、ケンカの途中でこれをやられると、こっちはますますエスカレートします。ま、気づけば、そういうことだったのかという話ですが。
すぐにケンカ腰になるというのは、アドレナリンの噴出だと思いますが、その反対の幸せホルモンの分泌も活発に起こるみたい。老人の場合、脳内ホルモンの分泌が盛んになるケースがある、という仮説を提示しておきます。
今は、そんな状況です。
見出し画像は travelereel さんの作品です。
ありがとうございました。