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題:ヒューム著 上野邦夫 小西嘉四郎訳「人性論」を読んで
ヒューム自身の著作物を読むのは初めてである。以前、ジル・ドゥルーズ、アンドレ・クレソン著「ヒューム」を読んだが、内容についてはあまり記憶がない。感想文をまとめていなかったのかもしれない。今回ヒュームの「人性論」を読むことにしたのは「人性」が何を語っているのか、それなりに理解したかったためである。無論、ヒュームが示す観念連合なる概念は知っているが、その奥にあるヒュームの人性に関する根本的な考え方を知りたかったためである。結論から述べると、文章が幾分硬くて読解しにくく読みにくかったのであるが、ヒュームの道徳についての考え方に納得することができた。なお、この「人性論」の著書としてどの本を選ぶのか、全訳ではないけれど中央クラシック版「ヒューム 人性論」を選択した。思想全集などの本は訳の質や文字の大きさなどの観点から読みにくいためである。
まず、本書の目次を示したい。記述内容が分かるためである。最初に「原因と結果と自由と」と題して、一ノ瀬正樹が論じている。細部を除いた目次は次のようになっている。
諸言
序論
第一編 知性について
第二偏 情念について
第三篇 道徳について
つまり、人性として人が本来備えている自然な性質が、知性、情念、道徳として記述されている。スピノザの「エチカ」は、神から始まって人間の行動と感情を、そして人間の自由と至福へと至る思想を数理学的に証明するのと異なっている。ヒュームが人間の知覚、特に観念に基づいて認識するのに対して、スピノザは理性によって認識する。ただ、両者共に因果の本質は必然性にあると見做している。スピノザは汎神論者として批判や迫害を受けている。なお、ヒュームも無神論者の嫌疑をかけられている。ヒュームはこのスピノザの理性に基づいた哲学を読みこなし、影響を受けている。この両者の哲学内容の比較検討は、相当の論文や著作物があるはずで、それらを読み参照して頂きたい。
一ノ瀬正樹が論じている「原因と結果と自由と」では、ヒュームの哲学の主要観点としての経験論を解説している。これを読めばヒュームの言葉ではないが、本書の概略は殆ど分かる。即ち、形而上学では、原因結果の関係については経験不可能な事柄について扱う学問であると捕らえられていた。この原因と結果の関係を一ノ瀬正樹は電車と操縦桿、ドラムと音などの例を提示しながら、自明な現象であると思われがちだがその解明の困難さを指摘している。このため「私たちの事実」として経験の観点へと問題の変換を行うことの必要性を述べる。即ち、原因結果の関係を「認識論」の問題ということに捕え直していくことである。ドラムを打てば音が出るのは、原因と結果に子細な事実として解明する以上に、経験としては自明である。こうして「形而上学」を認識論の場へ移し替えたヒュームの功績は大きいのである。
以下、「原因と結果と自由と」では、ヒュームの「人性論」の記述内容を簡単にまとめている。時間がなければここだけを読んでも良いが、分かりそうで分かりにくいのが難点である。一つだけ大切なことをあげておくと、「自由意志」と因果的必然性の問題である。ヒュームは「人間の行為に原因と結果の必然的結合がなければ、正義や道徳的公正と適合するように罰を科するのが不可能である」と書いている。即ち、ヒュームの自由論は、自由と必然、あるいは自由と決定論が両立するという考え方で、「両立主義」として現代の自由意志論に大きな影響を与えていることである。考えてみれば、自由に行為しても偶然の結果が導かれるわけではなく、結果は因果的必然性に結び付けられているものなのである。
つまり自由とはどの行為が許されていても、どの行為も必然的に結果を導いてくる。また、自由と言っても、自由な選択も先行する諸原因に影響を受けて決定されているのである。つまり、元々「自由意志」と因果的な結果なる考え方に何かしらの相違があったことになる。なお、「自由」については、カント、ベルグソンやサルトルなど数々の哲学者が論じているがここでは取り上げない。「意志」の代わりに、自己の基準を把持していて行動することこそが「自由」という考え方が多い。
「諸言」では知性と情念について公表し、ひきつづき「道徳」、「政治論」、「文芸論」を吟味したいとヒュームは述べている。「序論」では、人間性を経験と観察を基礎として研究の対象とし、観念の本性を明らかにしたいと述べている。
「第一章 知性について」 では、人間の心に現れる知覚を「印象」と「観念」に区分けする。「印象」とは「観念」よりも勢いよく飛び込んでくるものであり、「観念」とは勢いのない思考や推論、これらの心象を示すこととする。また、「印象」には「感覚」の印象と「反省」の印象とにヒュームは区別する。印象が感覚機能を刺激して、快や不快を生じさせる。この印象がふたたび写し取られ観念として残るが、欲望や嫌悪などの新たな印象を生むと反省の印象ともなる。ヒュームはこの反省の印象が対応する観念に対して生じ、感覚の印象よりも先になると述べる。この辺は分かりにくいが、人間の心の本性と原理を解明するには、まずこの観念を説明しなければならないのである。
先に述べた勢いのない思考や推論、これらの心象としての観念が連合していく。単純な観念は想像によって分離され、想像によって観念を呼び寄せ連合を生じさせる。この別の観念へと移らせるには「類似」、時間的もしくは場所的「近接」、そして「原因と結果」の三つがある。このような観念連合は複雑観念として、「関係」、「様相」、「実体」とに区別できるのである。この観念連合を取得していくのが人間の経験なのである。
「この第一章 知性について」 では、以下、私にはそれほど重要な思想が見当たらないので、主な章題(節題)だけを記述し残しておきたい。「空間と時間の観念の無限分割性について」、「存在と外的存在の観念について」、「知識について」、「蓋然性について、つまり原因と結果の観念について」、「なぜ原因はつねに必然的なのか」、「原因と結果に関する推論を構成する諸部分について」、「感覚機能と記憶の印象について」、「印象から観念への推理について」、「観念もしくは信念の本性について」、「信念の原因について」、「その他の関係とその他の習慣の結果について」、「信念の影響について」、「偶然による蓋然性について」、「哲学の懐疑的体系とその他の体系について」、「理性に関する懐疑論について」、「人格の同一性について」、「本編の結論について」である。
「第二偏 情念について」 では、情念にも直接的な情念と間接的な情念がある。直接的な情念とは善あるいは悪、快あるいは苦からじかに起こるようなものである。間接的な情念とは誇り、卑下、野望、高慢、愛、憎しみ、羨み、憐れみ、悪意、寛大など、他の諸性質を伴なって生じるようなものである。ヒュームは観念がこれら情念を生み出すものとし、情念が呼び起こす観念と、情念が呼び起されるときに視線が向かう観念とを区別する必要があると言う。こうしてヒュームはそれぞれの情念が自己を対象として持つのは、自然な特性によるだけでなく、原初的な特性によるものだとする。
つまり心の気まぐれから生じるのか、心の成り立ちから生じるのかということを考慮している。言い換えれば、自然がいくつかの印象の間、および観念の間に引力を与えて情念が生み出されると言っても良い。また意志と直接的な情念についての関係を考慮するが、理性が生み出すものではく、また、理性と情念が対立しあったり、意志や行為の支配を巡り争ったりすることはない。欲望など善や悪を生む情念と、善や悪から起こる情念があることには留意が必要となる。なお、善は「喜び」を生み、悪は「悲しみ」、「嘆き」を生じさせる。
「第三篇 道徳について」 では、道徳的な区別は理性に起因しないとする。哲学のうち実践的な部類に道徳は区分けされるため、道徳は情念や行為に影響を及ぼし、知性の冷静な、心を動かさぬ判断の範囲を超え出るものと想定されている。理性は真または偽を見出すことであり、情念、意志作用、行為とのかかわりを含んでいない。道徳的な正しさと堕落は、印象か観念からなる知覚によって判定される。従って、道徳とは判断されると言うより感じられるというほうが適切なのである。またその快、不快の理由を示すことで、徳あるいは悪徳を十分解明していることになる。こうしてヒュームは道徳的な善と悪とを区別する特殊な快または苦についていかなる原理に起因するか、と自らに問いて答えている。答えの一つに自然的の中に探すべきと言う、
つまり、徳の感覚は人為的であり、悪の感覚は自然的と述べている。このことは、徳は人為的に生み出されたものであり、悪は自然発生的に行われる人間の性があると理解すべきである。
また、正義と不正義の考え方も重要である。道徳的な性質を見出すには内面を見る必要があり、つまり行為を生み出した動機をこそ称賛や是認の対象とすべきなのである。いかなる行為も、その行為を生むある動機が、行為の道徳性についての感覚とは別個に人間性のうちにあるのでなければなければ、有徳つまり道徳的に善とはなり得ないとヒュームは言う。こうして思考を続けて、まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身との関係性といったものとかかわりのない人類愛のような情念は人間の心にはない。
この考え方を推し進めると、正義や不正義は自然に起因するのではなく、人為的に、教育と人間のしきたりから必然的に必然的に生じるということを認めなければならないとヒュームは強調する。ただ、共感こそが、すべての人為的な特に徳に対して支払われる尊厳の源ともなるのである。心の情念や作用には特有な感じがあり、この感じは快か不快である。快を感じれば有徳であり、不快を感じれば悪徳なのである。この特有な感じは情念のまさしく本性をなすものである。公共の善は共感こそが、徳を備えている人の善の傾向もわれわれの共感こそが価値を引き出すのである。
人間が案出した概念はほとんどが変化を受けやすい。というより捻じ曲げられて気分や気まぐれでどうにもなる。ただ、社会が形成されるそのものの初めから利害は紛れのなくあるものであり、このことが正義の規則を揺るぎのない、不変なもの、少なくとも人間性と同じ程度に不変なものたらしめているのである。再度述べるなら、紛れもなく人間社会における利害こそが正義を定めているのである。
そして、最後にヒュームは人間性についての最も抽象的な施策でさえ、たとえどんなに冷たく、面白みがなくとも、実際的な道徳に役立つものとなると言うのである。こうしたヒュームの道徳に対する考え方にはとても共感する。即ち、人間にとって道徳とは初めから持っていずに、人間が共同社会を作り暮らしていく中で定められた施策のようなものである。そして、人間は、自然的には自らの利害関係には有利な立場を選択しようとする。それは悪であっても構いはしない。こうした人間の本質に関わる点について、ヒュームが人間性の自然的なものと人為的なものとに区別し見抜いている点に感銘する。また、概念が移ろいやすい点も見抜いていた点にも感銘するのである。
以上
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