題:ヴァージニア・ウルフ著 丹治愛訳「ダロウェイ夫人」を読んで
たぶん、この作品は傑作である。ヴァージニア・ウルフの作品は少し前に「灯台へ」を読んだことがある。感想文も書いていて、日常における意識の非連続性、瞬間性を描いた作品であると結論づけていたはずである。ただ、「灯台へ」と「ダロウェイ夫人」の間には違いがある。「灯台へ」のラムジー夫人は、夫ラムジー氏とともに揺らぎのない主体として描かれている。でも「ダロウェイ夫人」では、もはや小説の背後にいる作家、即ち、ヴァージニア・ウルフが全権を握って各登場人物の主体性を操作し、彼らの挙動を描いている。それに相互に直接的な関係を持たない人物も登場してくる。文章も「ダロウェイ夫人」の方が詩的であって感情が満ちているが行動は控えめである。一方「灯台へ」は心理的な動きに行動が付随して、時間的な経過に悠久の時を忍ばせていても、散文的な文章だったはずである。
従って「灯台へ」と「ダロウェイ夫人」のどちらが先に書かれているのか迷いながら読んでいた。「灯台へ」の方が落ち着いていて作品にまとまりがある。一方「ダロウェイ夫人」は詩的な文章が時々小爆発を起こして若さを感じさせるが、登場人物の相互の関連性など斬新なアイデアがある。読み終わって「訳者あとがき」を読むと「ダロウェイ夫人」の方が先に書かれていたのである。この丹治愛による「訳者あとがき」は良く書かれている。読みながらどう感想を書こうかなどと思い浮かべた以上の鋭い視点で本書を捕らえている。従って簡単なあらすじを述べて、後は「訳者あとがき」から少し引用して感想を述べたい。
ダロウェイ夫人の家でパーティが開かれる。夫はもう大臣に登り詰めることがない政治家である。長女がいて女家庭教師と仲が良い。一緒に買い物にいくこともある。ダロウェイ夫人はこの家庭教師が嫌いである。嘗ての恋人がインドから来ている。当然会うが、とても仲が良かったけれども結婚はしなかった、今は彼に若い恋人がいるようである。夫人には宮廷の仕事をしている嘗ての友人や同性愛的に仲の良かった女性の友人もいる。これらの人物が逢ったりして昼間に食事をするなどしている。ダロウェイ夫人の過去や現在を行き来する心の動きが丹念に描写されている。一方戦争に従軍して神経症を患い苦しんでいる青年が公園で苦しんでいる。彼は妻の介護や嫌いな医師の診察を受けている。こうして、他の結構多い登場人物含めて、ロンドンの街中での会話や行動をする描写が続いて、やがて夜のパーティが開かれる。総理大臣もやってくるなど大勢いるようで賑わっている。医師の妻もパーティに招かれていて診察を続けていた青年が自殺をしたと連絡を受けたと言う。まさに、パーティのまっただなかに死が入り込んできたとダロウェイ夫人は言う。神経症を患っていた青年の死にダロウェイ夫人は、死は挑戦でありコミュニケーションの試みであり、抱擁があるなどと思っている。忙しくて会えなかった昔の恋人が何か異なる感情を感じたその時、そっと寄ってきたダロウェイ夫人が傍らにいるのである。
「訳者あとがき」から引用すると、本書はキリスト教の大きな物語の解体とともにあらわれた時の無常のなかであらわれた小説なのである。『「ひとつの目的」へではなく「空中に溶けてゆく」ビック・ベンの響きのように無に流れ去る時間を背景にしながら「連続性」から解放された、はつらつたる「瞬間」を「瞬間自体のために」愛するミセス・ダロウェイ、「善のために善をおこなうという無神論者の宗教」の実践としてパーティという「捧げものための捧げも物」を催すミセス・ダロウェイを主人公とする「ダロウェイ夫人」』には、そのような世紀末的な感性が色濃く反映していると言えるのだ。つまり、この作品は第一次大戦以後の精神の病をえがいた戦後小説の傑作であるとともに、1890年代のポスト・キリスト教的な精神状況を表現する「世紀末」文学の傑作でもあるのだ』
訳者は「連続性」と「瞬間」を確かに捕らえていて、加えて世紀末的感性と精神状況を表現していると言っている。そのような感性を潜ませているけれど、むしろ女性性と文章そのものの問題、分裂するそれぞれの主体、更に刻印されて逃れることのできない死との絡みをもっと分析する必要もあると思われる。作家と登場人物の関係、それらを支配する都市の空間に流れる時間と位置は何を言い表しているのかと問うこともできる。でも、訳者の一番優れている点は、このウルフの間接話法と直接話法の中間たる描出話法の翻訳の苦労は並大抵のものではないと述べ説明していることである。翻訳されているため正確には分からないが、確かに会話に微妙な調子が含まれていた。それにこの「訳者あとがき」には、挿絵も結構掲載されていて楽しいものになっている。本書を一読することをお勧めする。
さて、ジル・ドゥルーズがウルフに対して何と述べているか興味深い。ドゥルーズはウルフをエクリチュールと女性性の関連で捕らえている。彼の重要な概念である「女性になること、女性への生成変化」とは、男性的な「存在」の秩序からの離反であり、女性性なるエクリチュールの記述を可能にするだろう。ウルフはそう意味で両性性を愛している稀有な作家であり、かつ女性の社会的な地位の確保に努めている。なお、「女性になること、女性への生成変化」は作家ならば男性作家も含めて、誰しもがこの洗礼を通過しなければならないのである。この芸念の詳細な説明は残念ながら省きたい。私がよく理解していないためでもある。
以上