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題:倉橋由美子著 「反悲劇」を読んで
倉橋由美子とは懐かしい。ずっと以前、「スミヤキストQの冒険」という小説を読んだことがある。通常、読んだ小説の内容は記憶しているが、本小説については良かったのではないか、という微かな思いしか浮かんでこない。内容は思い出せないのである。最近は、時々、昔読んだ小説を読んでいる。今回は「スミヤキストQの冒険」ではなくて「反悲劇」を読んだ。全部で、短編小説が五つある。その内、「水郷にて」と「河口に死す」の二つを読んだ。著者倉橋由美子のあとがきには、次のように書いている。趣旨を簡単に述べると、小説とは市井(しせい)のつまらない人間の「起こりうること」を書くものとなっている。神々や英雄に霊の出てくる叙事詩や悲劇に能とは「あり得ない」、「起こり得ない」ことに属していて、市井の小説とは対立する以上に超えたものなのでる。
著者は、悲劇と小説に対する一連の批評として、これらの短編小説を書いたらしい。なお、これらの小説は英雄たちの本来は反小説的である悲劇のミュトス(非現実的な、空想的な物語)を小説の中に直接「移植」する試みともなっている。「水郷」はヘラクレイトスと息子ヒュロスに彼らの妻になったイオレとの関係、「河口に死す」は「コロノスのオイデップス」の内容の移植を行っていると著者は述べている。つまりはギリシア悲劇の物語の筋を模倣して現代的な小説を書いたのである。他の作品を読んでいないので分からないが、不倫や近親相姦の筋書きとなっている。本書を読んでも小説を批判しようとする著者の意図が見えてこない。著者は作中人物の自分の「自由意志」と自分を捕らえている「運命」とにこだわって書いたと述べているが、その点はわずかながら読み取れる。ただ、それほど重要な批判にはなっていない。著者が言うように、著者が神の位置にいて記述している、ただ、それだけなのである。悲劇を現在に移植するなら現在の問題を浮き彫りにしなければならない。そもそも悲劇とは何か。小説とは何かという問題から考慮しなければならないというのが、私の強い思いである。
なお、「水郷にて」は父が愛していた少女を妻として娶った主人公は、飛行機に乗ってでかけた妻の行き先も知らず、講義先へ出張する。空港で飛行機の墜落する幻影を見る。出張先で少女と懇意になり、なぜか一緒に帰京することになる。すると到着した別の飛行機から妻に似た人が降りて来るという話である。「河口に死す」は老いた主人公高柳は、息子が妻に産ませた娘、たぶん孫なる麻子と故郷の河口に三十年ぶりに帰郷する。河口に近い土手の上の旅館を買っていて、終の棲家とする手筈が整っている。離れはラブホテルとなっている。旅館の二階の窓からは懐かしくも河口が見える。河口は埋立地が広がり工場が並んでいる。荒地の海や松林も見える。懐かしい友人と酒を酌み交わし、麻子は友人の息子と花見見物や海水浴などデートをする。麻子の水着姿が見せる白い肌や脚に高柳はときめいてくる。昔、橋の下に乞食の母親と娘が住んでいて、少年高柳はこの娘に関心を持ってからかっていた。でも、娘は父の妻になったのである。もはや義母となってもこの娘に、実は高柳も子を産ませている。橋の下に老人もいて空洞の眼窩を持ち主人公の未来を予言していた。麻子は友人の息子と知り合い恋人関係らしくなると、すぐさま恋の主導権を握っている。彼には口付けなどを許している。主人公高柳の秘密を記述したノートを麻子は既に見ている。デートの帰りにずぶ濡れになって帰宅した麻子は、高柳の口を唇で塞ぎ彼の胸に顔を埋めて、本当に高柳の娘なのかと尋ねる。本当だと答える以外に高柳は方法を持たない。この家を発ちたがる麻子に、高柳は夏の間留まっていると言う。麻子は子供連れのお姉さんから連絡があって、彼らが来ると忙しくなると言う。彼女は浴衣に着替えて西の山の上に残っている太陽を見ている。太陽は黒い河口に並ぶタンクをあかあかと照らし出している。
さて、ギリシア悲劇とは合唱隊を伴なった演劇である。無論、喜劇もある。三大悲劇詩人として、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスがいる。昔、私はギリシア悲劇全集を持っていて、少しは読んだこともある。実家に置いていたが処分した。なんと言っても、ソフォクレスの「オイデップス」に描かれた、父を殺して母を妻とする悲劇が有名である。「コロノスのオイデップス」では、遂にオイデップスは死ぬことになる。「河口に死す」では、死が待ち受けている高柳老人を描いている。高柳は死を達観している。オイデップスの子の悲劇を描いた「アンティゴネ」は死んだ兄に砂をかけ葬ろうとしたアンティゴネは地下牢に閉じ込められて死ぬ。死者への礼節を無視した残酷な物語でもある。このギリシア悲劇は全貌が広大すぎて、私の知識で論じるには無理がある。一方、シェイクスピアの悲劇もある。このシェイクスピア悲劇は神々や英雄ではない登場人物を描いているが、感情の奥底が深くてとても悲しい物語である。
さて、小説は、悲劇や喜劇、市井の人間を描いても、何の題材であっても、根本はエクリチュールがなせる表現である。エクリチュールが表わす言語空間の中で、表現と形式との内に読者を引き込み酔わせる、その感覚的なかつ知的でもある表現は、もはや小説ではなくて文学と言わなければならない。小説ではなく文学こそが問題であり、主テーマとなる。従って、倉橋由美子は悲劇を反小説として書き換えて問題を摺り替えている。悲劇が反小説でも小説であっても構いはしない。ただ、現在の話に書き換えることで、小説もしくは文学の問題が何なのか明らかにしなければならない。彼女の書き換えは、小説もしくは文学の問題を明示できずに置き去りにしている。小説の題材として、ただ、ギリシア悲劇を選んだと言っても良い、問題の根本が捕らえられていないと思われる。
ここで、問題の根本を解決しようとする文学に関わる論説を紹介したい。倉橋由美子はこうした論説を参考にして、反小説と言う概念を深めなければならなかったのである。一つはロラン・バルトの「エクリチュールの零度」、もう一つは、ジル・ドゥルーズの「批評と臨床」における文学論を少しばかり紹介したい。彼らは文学を根本から捕らえる思考を行っている、と私は思っている。また私の文学に関する考え方は、彼等の影響を多大に受けている。倉橋由美子はサルトルを結構読んでいるみたいなので、サルトルの文学論を参考にしても良いのである。
バルトのエクリチュール論はサルトルの影響を受けるなどして揺らぎがある。同時代の作家たちに共通した規則や習慣などの集合体としての〈言語体〉や、作家の個人的な体験から生じる〈文体〉から独立した〈エクリチュール〉なるものがあるとバルトは主張する。エクリチュールとは文字を書く作法とでも言おうか、書くということが皆に暗黙の裡に同意されていた共通の言語体の空間の中に入ることで、先行する習慣から純化した形で自らの世界を再構築することでもある。というより、モーリス・ブランショの意見に従えば、その場所を空けるために古い空間内部を破壊することでもある。ブランショに従い言い換えれば、この文字が消滅しもはや非在の地点へと文学を連れて行くことが、バルトの言うクリチュールの零度の地点でもある。彼らの話は面倒なので、簡単に言えば、まず、文学とは人間的な主体と言語の問題であり、先に述べた偶像が君臨し先入観が支配する空間から逃れ出て、自らの本能的に語る孤立的な言語体に立ち戻ることでもある。
バルトの思考ははサルトルの影響に従い、著述家は書くことによって、未来に向けてアンガージュ(投企)する、と言うことになる。ここで、再度、簡単に言うと、文学とは自らの言表・言語にて記述されて埋められる空間である。そういう意味では、倉橋由美子は反悲劇として自らの小さな文学空間を作ったのかもしれない。ブランショは「文学空間」にて、確か最後にマラルメの詩を褒め称えるが、詩の言語形式こそ最高の文学と述べていたと思う。私も同じ思いを持つ。こうした文学作品の推奨できる代表例として、私は、詩人多田智満子の翻訳したアントナン・アルトー著「ヘリオガルバス または載冠せるアナーキスト」を取り上げたい。
さて、ジル・ドゥルーズの「批評と臨床」では、彼は文学とは不定形や未完成の側にあると言い、書くこととは自らを生み出す生成変化にある。つまりドゥルーズの使うエクリチュールと言う言葉は、あらゆる生き得るあるいは生きられる素材から溢れ出す一つのプロセス、つまりこれらを横断する生の移行であり、生成変化なのである。書くことによって人は女に-なり、動物や植物に-なり、知覚し得るものに-なると言う。この生成変化に基づいた言語論は長いため省くが、重要なのは、文学、エクリチュールの最終的な目的は錯乱の中から健康を創造することにあることである。民衆-人民のために、生の可能性を解き放つことにあるのである。
作家は自らに課した絶えず逃げてゆく臨海点に到達したとはとても言えない、自らの生成変化を完成したとはとても言えないのであり、書くことそれは作家ともはや別のものになることである。ドゥルーズは強烈に言う、文学的な書物を生み出す者のうち、自らを作家と称することのできるものは、狂人の中にさえわずかしかいない。逃げて行く臨海点を追い駆けて行く作家は孤独であり、狂気持ちであり、死の海が近づいてくる。結構、作家に自殺者が多いのはこうして自らを追い詰め、追い駆けては捕まえることができずに、生に行き場を失っていくためとも推測され得る。
最後に本小説について気になる細かな点を、二つばかり言いたい。一つ目は、高柳少年と眼窩の剝き出しになった老人との会話の内容などの記述についてである。人間が万物の尺度とか、人間を超えた力を神と呼ぶとか、そうした知性的な定義は記述しない方が良いと思う。小説とは基本的には状況の描写だけである。感性や感情に行動を加えた状況のみを記述すべきである。例えば、横光利一の短編はとても優れているが、「上海」に始まり「旅愁」などに至ると、政治に神などの宗教を論じる会話が長々と続き退屈である。この知性部分を除くと、とても優れた作品になっている。また、サドの「悪徳の栄え」は陰惨な描写が多数あるが、政治論なども長々と続いて退屈だと言っている人もいる。ジル・ドゥルーズによると、優れた小説は人間の境界を描いているとも言っている。境界とは生きていく上での苦難であり、生から墜落しそうな崖っぷちにでもある、もしくは肌の内の熱い沸騰する血液を抱えているとか、そうした生と死との狭間に置かれている人間の状況の描写でもある。無論、そうした状況を描ける作家は少ない。知性的な表現を記述するより、この境界を目指して記述すべきなのである。
二つ目は、「方丈記」という言葉である。「水郷にて」と「河口に死す」の両方に出てくる。「方丈記」は、主に火災や地震などの自然災害を、客観的な視線で描いた作品である。方丈の庵に住んでいたため、どうにも達観した境地にいた人物である。反対に、神々と英雄の話は、感情的にも肉体的にもどろどろとしている。従って反悲劇に登場する人物もどろどろと描いた方が良い。高柳老人は逆に麻子を抱き締めても良かったのである。「方丈記」の作者のように達観した書きっぷりは、どうにも合点がいかない。反悲劇は、反哲学も、反小説に、反芸術などは、「反」という言葉を付くと、不思議になにかしらの高級感が漂ってくるは真実である。でも、最後に再度言うが、小説における真実はエクリチュール、即ち作者そのものが長年に渡って会得し描写できる文章そのものの内に押し込められている。同時代の作家たちに共通した規則や習慣などの集合体としての〈言語体〉や、作家の個人的な体験から生じる〈文体〉から独立した〈エクリチュール〉へと向かい、そうした文章が新しく露わにする諸感情や諸感覚を含んで描かれた小説を読みたいものである。
なお、最後に本小説そのものはなんとか認めてあげたい。時間と空間が過去と現在が密着して溶解している感覚が生じる。そして、河口の描写で、埋立地が広がり工場が並んでいる。荒地の海や松林も見える、茫洋とした簡単な描写ながら混沌とした河口に不気味さを感じるためである。
以上
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