題:松岡譲筆録 夏目鏡子述「漱石の思い出」を読んで
夏目漱石の妻、鏡子の語りを松岡譲がまとめたものである。「編録者の言葉」として、松岡譲は何度も加筆修正したと述べている。記述した文章を鏡子に確認したり、鏡子が新たに思い出したことなどもあるためである。64の断章にして時代順に記述しているが良くまとまっている。特に漱石の英国留学後のヒステリや修善寺での吐血から永眠までの思い出の内容がとても濃い。そうした内容よりも、鏡子なる妻がいなかったなら、漱石は小説を書けなかったのではあるまいか。神経質で癇癪もちの漱石に対して鏡子はおっとりとして何処か鈍くて、それでいて漱石と喧嘩をしながら包容力がある。とても十歳差の夫婦とは思えない、対等の気力と母性とを鏡子はそなえているのである。
「解説」で漱石の孫である(漱石の長女筆子の子)半藤未利子は、『髪をふり乱して目を真赤に泣き腫らして書斎から走り出てくる鏡子を、筆子はよく見かけたものだった』と言いながら、『・・これらの言葉は思い出す度に私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとして思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう』との言葉が印象的である。さて、本書の内容で気に掛かった点、特に生活面を中心にして簡単に示して感想文として示したい。なお、結婚当初からの時系列で示している。無論、漱石が「硝子戸の中」などに記述している話が結構あるが、無論本書とは視点が異なる。
1) 熊本で簡素な結婚式をあげる。しめて7円50銭と安上がり。鏡子の記憶力が良いのか、本書では金額が結構明確に示されている。ただ、漱石はどちらかというと金に無頓着で、勝手に財布に小遣いを入られている。本以外は金のかからない古道具集めなどの趣味に使っていたらしい。なお、絵画と俳諧は生涯の趣味であったらしい。
2) なお、松山での本代は月収70円のうちの20円である。
3) 漱石はゆったりとしていて公平で、向かっ腹もたてることもない。
4) 楠緒子は俺の理想の美人だと漱石は鏡子に言っていた。
5) 樋口一葉を漱石の兄の嫁にという縁談があったとのこと。貧乏な家で金を借りられると困ると親父が断ったとのこと。漱石は一葉の全集を買ってきて読み、男でもなかなかこれだけ書けない感嘆していたとのこと。
6) 大学への返済も真面目に行っていた。
7) 草枕の那美さんのモデルの話。
8) 漱石の腹違いの姉高田の寧さんの話。
9) よく吠える犬の話。
10) 洋行を転機として漱石一家に暗い影がさすようになる。有名なロンドンでの発狂の話が語られている。帰国後の漱石に例の病気が発生。どうも漱石の癇癪は帰国後に生じて、季節性や顔が真っ赤に上気するなどの兆候がある。鏡子は一時別居などする。漱石はいろんなことを頭の中で創作して、時々狂的にいじめる。その後、年ごとの周期となり少しは治まる。
11) 漱石と鏡子の喧嘩。鏡子は生きるか死ぬかの境にたっていたようなもので、自分ながら死にもの狂いでやっていた。離縁の話がたびたび持ち上がる。鏡子の父が裁判所に願いを出してくださいとたのむ。
12) 探偵の話。
13) 貧乏であったが、頭さえ静まれば比較的楽であった。
14) 頭の調子が良くなるにつれて、大学の講義のノートの字が目立って小さくなる。
15) 猫の話。全身足の爪まで黒い福猫を飼う。
16) 少しずつ書き始めて原稿料が入り少しずつ楽になる。
17) 泥棒の話。読みもしない本を枕元に持ち込む。なお、泥棒には何度も入られる。
18) 猫の原稿料でパナマ帽を買う。
19) 四女の出産時、漱石が面倒を見て取り上げる。ナマコのようにとらえどころのない赤ん坊。
20) 朝日新聞入社。「草枕」が見込まれての入社。
21) 「文学論」の出版。
22) 漱石は涙もろい質、気の毒な話にはすぐに同情する。面倒見も良い。
23) 坑夫や謡の稽古の話。
24) 猫の墓が文鳥など生き物の墓になる。
25) 満韓旅行。
26) 鏡子の占い好き。修善寺大患時の祈祷の願い。病気のおかげで穏やかな性格になる。大塚奈緒子の死。
27) 博士号辞退。
28) 善光寺への漱石と鏡子の一緒の旅。なお、漱石は講演の用向きがある。
29) お房さんとお梅さんおの二つの縁談。「行人」に関係するのだろう。
30) 雛子の死。墓を作る話。
31) 頭の病気の前に耳がぴくぴく動く。毒掃丸を隠して飲ませる。
32) 長塚節の「土」の朝日新聞への掲載。
33) 「行人」記述時の例の病気。胃の病気が頭の病気の救いになる。
34) 「心」の岩波からの自費出版。
35) 芝居と各力好き。
36) 祇園のお多佳さん、お茶屋の女将でありなが有名な文芸芸者との話。そう言えばテレビでみたことがあるが、この本のこの話を元にシナリオを書いていたのではと推測する。晩年の漱石の恋という話にしたのであろう。詳細不明。
37) 男の子の語学教育。女の子は放任主義。
38) 「文学論」を超えた自らの文学観ができたと言って、漱石が則天去私や悟りや道の話をする。
39) 死の床の話。なお「明暗」は一日に一回分を書くのが日課。頭に水を掛ける。死相が表れてくる。この辺りの逸話は結構他にも記載されている。
40) 解剖所見のカタカナ文あり。漱石は解剖を承認していた。脳と胃を提供。文献院古道漱石居士。漱石の戒名と鏡子の戒名を墓にならべて掘ってもらう。
本書の最後には(昭和三年十月九日)と日付が記されている。書き忘れたが漱石が亡くなった時には結構お金があったらしい。稼ぎに追いつく貧乏なしといったところか。お金に苦しめられていないでも、漱石は遺作「明暗」やその一作前「道草」で、お金の工面や何らかの面倒に、せびる親族者などのことを執拗に書いている。
以上