国別の言語観の違いと日本語

英文学の批評理論では意味と構造を区別せずに一致するものと考えている。

他方では、スイスのソシュールの言語学ではシーニュとはシニフィアンとシニフィエのことであり、構造という観点はなかった。

記号をどのように捉えるかは各国で様々だ。

日本にもオリジナルの言語学がある。時枝誠記は言語の構造にも注目して、日本語の動詞で終わる構造については、特に形態を持たない零と呼んだ。

英文学は意味と構造を同一視してしまっており、日本文学で意味と構造を区別するのとは大違いである。

日本人の言語観では、言語の統語という構造面を重視していた。構造面を重視する言語観は世界的にも日本人がはじめて創始した言語観である。時枝誠記の言語観は戦後の海外の思想家にも影響を与えていた。

文章の内容、特にレポートという報告のための文章では構造面が重視される。

言葉とはAとBを結びつける述語的機能のことであり、言葉の意味は文の構成要素に過ぎず、述語付け判断するための構造がなければ意味はない。日本人の言語センスは、ソシュールが不確定とした言語の意味に述語という構造を与えて、構造により構成的に言葉を組み合わせて意味付け親密圏を創り出す言語だったのである。日本語はひらがなの裁縫による構成的に零から創造する無的象徴の芸術的言語なのである。

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