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【11月29日発売】酒寄進一/E・T・A・ホフマン『牡猫ムルの人生観』(東京創元社)訳者あとがき[全文]
この記事は11月29日発売のE・T・A・ホフマン『牡猫ムルの人生観』(東京創元社/単行本)の酒寄進一先生による訳者あとがきを再録したものです。 (編集部)
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本書ほど序文を必要とする書物もないだろう。いかなる数奇な経緯で本書が組みあがったか説明しておかなければ、まずわけがわからないはずだ。
そしてこの訳書ほど訳者のあとがきを必要とする書物もないだろう。いかなる数奇な経緯で訳者が本書と出会ったか説明しておかなければ、訳者の思い入れの深さはまずわからないはずだ。
ぼくの高校では国語の授業で進級論文のようなものが設定されていた。一年生のときは芥川龍之介論、二年生のときは夏目漱石論。一九七三年、二年生の夏、論文のネタを探して、神田の古本屋街を渉猟した。そして出会ったのが、吉田六郎著『『吾輩は猫である』論 漱石の「猫」とホフマンの「猫」』(勁草書房 一九六八年)である。ホフマンの「猫」は初耳だったが、これを参考にすれば論文はできあがる。しめしめと思って、さっそくその一年前に翻訳出版されたばかりの『牡猫ムルの人生観』(創土社 ホフマン全集 第七巻、深田甫訳)を入手した。課題の論文は四百字詰め原稿用紙で三十枚ほどになったと記憶している。二つの猫作品の特徴として「ユーモア」について書き、ホフマン作品の特徴として「夢」と「幻影・幻覚」の描写について論じた。文学研究の面白さをはじめて実感したのもこのときだった。創土社版の帯文には『牡猫ムルの人生観』がこう紹介されている。
「学識ゆたかでちょっと自惚れやの牡猫ムルが綴る諷刺あふれる自伝と、その主人の楽長クライスラー(音楽芸術家のもっとも深遠な文学的典型といわれる)の悲恋と正義の伝記が錯綜しながら(……)すべてを二重レンズで見なければならないような、妖しき世界を描いた未完の大作」
楽長がムルの主人であるという件は若干誤解を生むが、じつに正鵠を射た紹介文だ。著者のホフマンは一八一九年に執筆を開始し、第一巻が同年末に、第二巻が一八二一年末に刊行された。当初、第三巻まで構想していたが、翌一八二二年六月にホフマンが亡くなったため、未完に終わった。
とはいえ、ムルの人生は第二巻で一応の決着を見ている。現実でも、ホフマンはムルという名の牡猫を一八一八年から飼っていて、一八二一年十一月末に死別している。この実在したムルが本書の牡猫のモデルであることはいうまでもない。
ホフマンは友人知人にムルの死亡通知を送っており、愛玩していたことが窺える。友人ヒッツィヒ宛に出された通知文を紹介しよう(口絵参照)。
本年十一月二十九日から三十日にかけての夜、その生涯はまだこれからだというのに、わが愛する弟子、牡猫ムルが短いが、身もだえるほどの苦しみののちに永眠し、よりよき存在となった。私と心を共にする支持者や友に慎んで告知するものである。永眠したこの若者を知る者なら、わが痛恨の思いを正当とみなし――沈黙をもってかの者に敬意を表することだろう。
ベルリン、一八二一年十一月三十日 ホフマン
日本の文壇で猫と言えば、もちろん夏目漱石の『吾輩は猫である』であるが、漱石も愛猫の死亡通知を出していることはご存じだろうか。明治四十一年九月十四日付の死亡通知はこんな文章ではじまる。「辱知猫儀久々病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にか裏の納屋のヘッツイの上にて逝去致候」(角川書店 『漱石全集 第五巻』一九六一年、所収)。
ムルと「吾輩」の関連性はこれだけに終わらない。『吾輩は猫である』の中で「吾輩」は「自分では是程の見識家はまたとあるまいと思ふて居たが、先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大気燄を揚げたので、一寸吃驚した」とムルについて言及していることはつとに知られているが、ドイツ文学者藤代素人が『吾輩は猫である』の雑誌『ホトトギス』連載中に「カーテル、ムル口述、素人筆記」として『猫文士氣焰錄』(『新小説』明治三十九年五月号)という一文を書いていることはご存じだろうか。「まだ世界文學の知識が足らぬ爲めかも知れぬが、文筆を以て世に立つのは同族中己れが元祖だと云はぬばかりの顔附をして、百年も前に吾輩と云ふ大天才が獨逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない。若し知て居るのなら、先輩に對して甚だ禮を缺いて居る譯だ」と「吾輩」を大いにからかっている。
『ホフマン全集』の「作品解題」で藤代素人の一文に触れたとき、もし自分が本書を翻訳するならムルの一人称は断然「吾輩」にすると心に決めたことをよく覚えている。五十年越しのこの翻訳ではいろいろ考えて「わが輩」とした。ちなみに深田甫訳では「余」、石丸静雄訳では「おれ」、秋山六郎兵衛訳では「俺」、期せずして本書とほぼ同時期に翻訳出版された鈴木芳子訳『ネコのムル君の人生観』(光文社文庫)では「わたし」。ムルの一人称がどれかで、作品の雰囲気は相当変わると思う。はたして読者諸氏の好みやいかに?
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さて、本書の魅力はムルの大気焰のおかしさにあるのは当然として、「二重レンズ」のもう一方のレンズである、反故紙として誤って挿入されたという「楽長ヨハネス・クライスラーの伝記」との合わせ技もこの作品の面白さに一役買っている。伝記『E・T・A・ホフマン ある懐疑的な夢想家の生涯』(法政大学出版局 一九九四年)の著者ザフランスキーによると、一八〇九年のデビュー作『騎士グルック』を書いた時期、ホフマンは備忘録にこんなことを書き込んでいたという。
こんなことを書いてみたらさぞや愉快にちがいない。珍談奇談を考えだしては、なにかしらごく尤もらしい色合いをつけてみる。うまく引用してやればいい。それぞれ何世紀も隔たった世界に生きた人物たちを組み合せたり、あるいはまったく異質の事件を組み合せたりして、すぐに噓だとわかるような引用を使えばいい。簡単にだまされる人もいるだろうし、少なくともひとときでも本当だと思う人がいるかもしれない。――こういう人たちをちくりとひと刺し痛い目にあわせれば、首尾は上々だ」
これを受けてザフランスキーは「異質なもの同士の『組み合わせ』、幻想的なものとリアルなものの「組み合わせ」、現在の真っ只中に過去のものを「組み合わせ」てみること。これがホフマンの文体の特色だ」としている。
この特徴は本書にも十二分に生かされている、というか、本書こそそうした「組み合わせの妙」の集大成ではないかと思う。ムルの自伝とクライスラーの伝記の混在もそうだが、全体を通読すると、動物小説であり、怪奇小説(夢、魔術、自動人形)であり、犯罪小説(拉致、暗殺未遂、毒殺)であり、恋愛小説であり、さらにはドイツの小説の伝統である教養小説のパロディでもある。
マイスター・アブラハムがいみじくも「噓はたいてい暴かれ、誤解はたいてい解けるものだ」と言っているが、それを地で行くように第二巻後半で、それまで錯綜していた噓や謎の真相が畳みかけるように見えてくるところもじつにスリリングだ。もちろん第三巻を予定していた関係もあり、クライスラーとユーリアの恋の行方、マイスター・アブラハムの行方不明の妻のその後など気になることが積み残されてしまっているが、これはこれで、読者諸氏それぞれに想像や妄想をふくらませる余地として楽しんでもらえたらと思う。
ムルの自伝に割り込む「楽長ヨハネス・クライスラーの伝記」は断片であるため若干全体像をつかみにくいが、これはホフマンが作家活動の初期からこだわってきたクライスラーというキャラクターの一側面でしかないこととも無縁ではないだろう。ホフマンは『カロ風幻想作品集』第一巻(一八一四)、第四巻(一八一五)の中で「クライスレリアーナ」 Kreislerianaと題して合計十四編の小品をまとめている。のちにロベルト・シューマンによる『クライスレリアーナ ピアノのための幻想曲集』という二次創作を生み出したことでも知られる小品集で、クライスラーは、一時は音楽家を本気でめざしていたホフマンの自画像だと言えるし、それを超えて今ではドイツ・ロマン派の芸術家像の典型例とも評されている。『クライスレリアーナ』の冒頭は「彼は何処から来たのか?――誰にもわからないのだ!――彼の両親は誰であったのか?――知られてはいない!――彼は誰の門下生か?」(深田訳)という一文ではじまるが、この一部が本書の「楽長ヨハネス・クライスラーの伝記」でついに明かされる運びとなった。
ザフランスキーはこのクライスラー像の変遷を次のように要約している。
ホフマンが長きにわたってこだわり続けるこの人物は、作者ホフマンの成長とともに変化して行く。はじめのうち、クライスラーは強靭な芸術意志そのものを体現した人物である。芸術のわからない世間に対し理屈をこね、諷刺で対抗する。その次の段階に至ると、クライスラーは霊感は感じるものの、形成力に欠くため、作品にならない「心象」の「海」に溺れかけている音楽家ということになる。ホフマンのユーリア体験以後、クライスラーは不幸な恋愛のために狂人になってしまう。最後に『牡猫ムル』で登場するクライスラーは、謎めいた事件に巻き込まれたり、熱狂的な芸術讃歌に浸ってはいるものの、懐疑家になっている。彼が抵抗するのは外部世界の制約に対してばかりではない。彼はじしんの限界も悟ったのである。
クライスラーがホフマンの精神的変化を含めた自画像ということであれば、そこにホフマンが生きた時代が写し込まれていることも想像に難くないだろう。
クライスラーは幼少期に音楽の手ほどきを受けた。ホフマンも十代で音楽理論とピアノ演奏を学び、一七九二年にケーニヒスベルク大学の法学科に進学してからも、絵の制作、作曲、詩作に没頭した。だが卒業後、ホフマンは司法試験を受け、プロイセン王国で裁判官の道を歩む。ところが一八〇六年、ナポレオン軍の進駐に伴って失職する。一方、クライスラーは公使参事官の官職につき、理由を明かさないまま職を辞している。その後、大公国で楽長になり、音楽家としての道をスタートさせ、そこでふたたび挫折するところは、一八〇七年から音楽指揮者として活動し、一八一一年、一八一四年と二度解雇されてしまうバンベルク、ドレスデン時代のホフマンと重なるだろう。ホフマンはまた一八一一年頃、上流階級の人々への音楽教育に携わっていて、歌唱指導を行なっていた二十歳も歳下の女性ユーリア・マルクに恋心を抱いたことが知られている。この出来事はクライスラーとユーリアの関係を彷彿させるだろう。ホフマンはその後、本格的に作家の道に進む。これについては巻末に年譜を付すので、そちらを参考にしてほしい。ここでは引きつづき本書の同時代との関わりを検討しておきたいと思う。
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本書の執筆開始が一八一九年なので、この年を作品内の現在と想定した場合、「三十歳ぐらいの」クライスラーは一七八九年前後の生まれということになる。一七八九年はフランス革命が起きた年だ。旧態依然としたドイツで生きる若者の多くはこの革命に歓喜したといわれる。自分たちの軛も解かれると期待したからだろう。初期ドイツ・ロマン派を担った人々、アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(一七六七年生)、フリードリヒ・シュレーゲル(一七七二年生)、ノヴァーリス(一七七二年生)、ティーク(一七七三年生)などの若い世代はフランス革命の報に血をたぎらせたことだろう。それに対し、後期ドイツ・ロマン派に属するアルニム、シャミッソー(共に一七八一年生)、『グリム童話』を編んだヤーコプ・グリム(一七八五年生)、ヴィルヘルム・グリム(一七八六年生)などは青春期にナポレオン戦争を体験する。つまりナポレオン戦争で多かれ少なかれ人生を翻弄され、反フランスに矛先を変え、自分たちのオリジンであるドイツ文化に注目する者たちが出てくる。ホフマンは一七七六年生まれなので、初期ドイツ・ロマン派の世代に近いが、実際にドイツ・ロマン派の作家たちと交流したのは、ナポレオン失脚後の一八一四年にはじまる彼のベルリン時代で、ナポレオン戦争体験を共有する後期ドイツ・ロマン派の作家が中心だった。このことがホフマンの作風にも影響していると言えるし、クライスラーの設定にも影を落としていると推察される。
時代の写し込みという点で気になるのはイレネウス侯爵も同様だ。侯爵は一時期、パリにいたことになっている。そしてその後、大公国に領地を併合されている。つまり侯爵はナポレオン戦争でフランス側につき、その後、領地を失ったのだ。ホフマンが失職した一八〇六年、ドイツではナポレオンの影響下に置かれた国家連合「ライン同盟」が作られている。侯爵はその趨勢の中でフランス軍に従軍していたのではないだろうか。そうすると、ナポレオン失脚後のヨーロッパの秩序回復と領土分割を決めたウィーン会議(一八一四―一五)では当然、蚊帳の外に置かれることになる。ゲーテやシラーが集ってドイツ古典主義文学の花を咲かせたザクセン=ワイマール公国は逆に公子をロシア皇帝の妹と結婚させて、対フランス戦にロシア帝国を引き入れた功績で、一八一五年、周辺の領邦を編入する形でザクセン=ワイマール=アイゼナハ大公国に昇格している。イレネウス侯爵が領地を失ったのも、この一八一五年と考えられそうだ。またそう考えると、ジークハルト宮に得体の知れない男があらわれたと騒然としたときに、侯爵を護衛するために「総督に無理を言って祖国防衛者たちまで連れてきた」という一節も意味深となるだろう。なぜこの地に「総督」がいて、無理を言わないと祖国防衛者たちに助けてもらえないのか。当時の読者なら、きっと「ははあ」と思ったに違いない。
また作品内で十六~十八歳の侯爵令嬢は一八〇一年ないしは一八〇三年生まれと考えられる。イレネウス侯爵が一八〇六年頃、パリにいたとすると、四歳のときに体験した画家レオンハルト・エットリンガーの一件は、侯爵不在のときの出来事だった可能性が高い。
公子ヘクトールも侯爵と同じように「フランス軍に奉職し」ており、その後「フランスの軍服を脱ぎ捨てて、ナポリ王国の軍服に着替えた」。ナポリ王国は一八〇六年にナポレオンによって征服され、それ以降一八一五年までナポレオン帝国の衛星国だった。公子ヘクトールは一八一五年にフランスの軍服を脱ぎ捨て、ブルボン家の「両シチリア王国」に属するナポリに帰参したのではないだろうか。これが二十代前半と考えると、作中で描かれるある事件の背景もいろいろ見えてくるが、これはネタバレになるので割愛しておこう。
一方、マイスター・アブラハムは何歳くらいの設定だろう。幼いクライスラーとゲニエネスミュールで出会っているので、これが一八〇〇年頃。それ以前にナポリ時代があり、結婚をし、先代の侯爵に仕えていたことを考えると、一七六〇年頃の生まれで、作中の現在は六十歳前後ではないかと思う。彼はふたたびナポリに赴いて、公子ヘクトールと絡み、また同地で殺人事件が起きるが、これは一八一六年か一八一七年頃のことだろうか。
ではベンツォン夫人はどうだろう? 作中では「三十代半ば」とあるので、一七八四年前後の生まれと思われる。娘のユーリアは作中で侯爵令嬢と同年齢と考えられるので、生まれたのは一八〇一年ないしは一八〇二年で、ベンツォン夫人が十七歳か十八歳の頃の子となる。ベンツォン夫人は、マイスター・アブラハムがゲニエネスミュールへ赴く前(一八〇〇年頃)にもうひとり女子を密かに生んでいる。その子は二歳のときにナポリに来ているので、出産は一七九八年(夫人は十四、五歳)頃だろうか。
作品の裏設定を掘り下げると、いろいろ見えてくるが、第三巻が書かれずに終わったので、他にもまだ見えない伏線があるかもしれない。たとえばドイツでは、侯爵令嬢とユーリアはベンツォン夫人によって取り替えられているのではないかと憶測する向きもあるらしい。そうだとして、これが第三巻で明らかになったら、「ユーリアと侯子イグナツィウスが将来結婚することが公表された」件はどうなることやら。「ベンツォン顧問官はもういない。今いるのはフォン・エッシェナウ帝国伯爵夫人だ」という一節も、伏線と考えるととても気になる。帝国伯爵はもともと神聖ローマ帝国皇帝直属の貴族を指し、帝国会議で議決権を持っていたが、ナポレオン戦争の結果、帝国が解体し、その後のウィーン会議を経て、その実権を失っているからだ。この物語の時点でベンツォン夫人が帝国伯爵夫人になることにどんな意味があるのだろうか。深読みできる要素はまだまだある。そういうことをあれこれ想像しながら本書を楽しんでもらえるととてもうれしい。
さて、最後もまたホフマンの遊びに合わせて、こんなふうにあとがきを締めくくることにする。
訳者のあとがきを閉じるにあたり、交情厚き読者諸氏に極めて喜ばしき知らせをお伝えしたい。――かの賢く、知性を持ち、怪奇をよくし、奇想天外だったホフマンは苦悩に満ちた生涯の半ばで病死したものの、その作品は不滅である。機会があれば、ホフマンの手になる小説のさらなる翻訳に取り組みたいと切に願うものである。乞うご期待!
■酒寄進一(さかより・しんいち)
ドイツ文学翻訳家、和光大学教授。主な訳書として、2012年本屋大賞翻訳小説部門第1位に選ばれたシーラッハ『犯罪』、2021年日本子どもの本研究会第5回作品賞特別賞を受賞したコルドン〈ベルリン三部作〉、ヘッセ『デーミアン』、ブレヒト『アルトゥロ・ウイの興隆/コーカサスの白墨の輪』、カシュニッツ『その昔、N市では』、ノイハウス『友情よここで終われ』、ホフマン『牡猫ムルの人生観』などがある。