楽しい史料のすすめ ~『我衣』(2)江ノ島・鎌倉紀行~
江戸時代の旅行というと、学校で教わった東海道五十三次や箱根の関所、大井川の渡しにお伊勢参りなどのワードが浮かんできます。しかし、そんな大旅行は当時の庶民にとって生涯に一度に行けるかどうかのもの。しかしその分、関東近郊へちょこっと小旅行なんてことはみんなよくやっておりました。曳尾庵先生も江ノ島や熱海の湯、秩父や房総方面などに出かけていたようです。『我衣』にはそんなちょっとした旅行記もありますので読んでいきましょう。
江戸から江ノ島へ
文化四年の春。曳尾庵先生とその仲間たちは江ノ島へ団体旅行(注1)に行きました。全部で男女27人、うちお供4人。3月14日の朝六つ時(日の出ごろ)に中橋広小路(今の京橋あたり)の茶店に着きます。そして江戸の南玄関である高輪大木戸にメンバーが全員集合。これが四つ時。前夜から雨だったようですが、江戸を出たあたりで天気は快晴に。
七つ時に神奈川宿(注2)に着いてこの日は亀屋に宿泊。月夜の海を眺めながらここで一句ひねりました。
さて翌日。天気快晴。日の出前に神奈川宿を出発し、東海道をずっと進んで藤沢の遊行寺に到着。ここで「小栗判官と照手姫」の霊宝とやらを見て大笑いしています。(注3)
十五日の夕方に江ノ島の「岩本院」(注4)に到着。夕食はさっそく山海の美味を堪能したようです。翌十六日はのんびりと江ノ島弁天を参拝して旅の目的である奉納をします。その後はとれたてのアワビのごちそう。夕方、坊へ戻って浜辺で地引網を引いて大量の小鯛をとる。そしてまた夕食に食べるという海鮮グルメ三昧。追記には「萬平、京三、松源の3人が相撲をとる」とあります。団体旅行のときにこういうはしゃぐ人って必ずいるよねって感じでしょうか。楽しい江ノ島旅行の雰囲気がよく伝わってきます。
いざ、鎌倉(観光)!
さて翌日。一行は早朝に宿を出発し鎌倉観光へと向かいます。
浜沿いに鎌倉へ向かう道々で地元の住民がかわるがわる案内をしてくれたようですが、みんな知識も無くいい加減なことしか言わないので頼んじゃダメだということです。
さて鎌倉に着いたご一行。本当にあちこちを見物し尽くしています。というより、今でも鎌倉へ行く人はだいたいおんなじ観光ルートをめぐっているんじゃないでしょうか?以下はその抜粋です。
まず切通し(極楽寺坂切通)を通って極楽寺へ。それから長谷寺の大観音。あの9mもある見事な観音様はいつの時代でもおススメですね。鎌倉大仏ではもちろん胎内に入っています。
続いて建長寺へ。こちらは鎌倉五山第一の寺院であり、曳尾庵先生も大感激だったように本当に見どころいっぱい(注5)です。鎌倉観光では絶対に外せません。北鎌倉駅のまん前で行きやすいのもいいですね。この時代は横須賀線は走ってないけど。
次の海藏寺の十六ノ井は今では静かな花の名所。その先には藤原景清が閉じ込められていたという石窟。こちらも現在でも見に行けます。
亀谷山すなわち寿福寺は北条政子が栄西を招聘して建てた名刹で、政子と源実朝のお墓と伝えられている五輪塔が石窟の中にあります。
最後の荏柄の天神に伝わる庖丁正宗はちょっと面白い。名匠正宗作の短刀「包丁正宗」は3振が現存していてどれも国宝となっているのですが、ここのは別物。おそらくは模造品と思われますが、かつて靖国神社の遊就館で展示されたこともあるのだとか。
この直前の文に「寶物、銀壹枚奉納して拝見す。」とあり、この当時にはもう入場料を取って宝物を見学させるという「宝物館」のような仕組みがあったようですが、それらが本物かどうかはだいぶ怪しそうです。弘法大師の般若経に藤原鎌足自筆の華厳経、北条政子奉納の手箱(注6)やら源頼朝の真筆だとか・・・その真偽はさておき、このような珍品をたくさんしつらえて、お金を取って観光客に見せるというビジネスがすでに成り立っていた、ということでしょう。
さてそろそろ江戸に帰ります。
帰りはおそらく金沢街道(神奈川県道金沢鎌倉線)沿いの旧道(現ハイキングコース)を通ったのでしょう。朝比奈を越えて金沢八景へ抜けていきます。そこで「一覽亭」という金沢八景が一望できる場所へ行きます。ここの名主の屋敷がとても大きかったらしく、あずまやがあり、そこで昼食をとっています。
また、近くの丘にある能見堂にも立ち寄っています。古代の宮廷画家、巨勢金岡(こせの・かなおか)がここで金沢八景を描こうとしたが、そのあまりの美しさに描くことができず筆を捨ててしまったという伝説のある場所です。(注7)そして、ここでまた一句。
帰りは金沢から船をチャーターして神奈川まで海路を行きます。現在では見ることができませんが、本牧の崖は海から見るとかなり良い景色だったようです。後に横浜に入る外国船の乗組員たちの間でもよく知られていたのだとか。この時、海上で行き合った菱垣船に乗り込んで内部を見学させてもらっています。もう観光というか、何でもかんでも見物しようという意欲には尽きることがありません。この後、無事に神奈川に到着。あとは帰るだけなので省略、と。
昔の人々が日々どんなことをどんな風にやっていたのか、という記録は過去の暮らしを知るうえではとても重要です。現代の人々も泊まる宿に宿泊し、現代の人々が集まる名所旧跡を見物し、現代と同じように新鮮な海の幸を味わう。人のやることはだいたい同じという気もしますが、この170年ほど前の江戸時代初期に鎌倉を訪れた沢庵和尚の紀行文には、荒廃しきって人もまばらな鎌倉の様子が記されています。まだ戦国時代の傷跡が残っていたのでしょう。文化の発展も豊かな暮らしも、平和あってこそという気がします。
なお、筆者は横浜居住のため休日の散歩で鎌倉によく行きます。そのため何だか観光地の宣伝みたいな記事になりましたが、ご勘弁下され。
(注1)この団体は「百味講」とあります。これは信者が信仰する寺社へお供えをすることを目的とするサークルで、江ノ島弁天、成田山、浅草観音などで盛んだったようです。元々は宗教的な動機を持つ「講」ですが、実質みんなで遊びに行く会という感じでしょうか?
(注2)高輪に集合したのが現在の時間で朝9時ごろ、神奈川宿へは夕方4時ごろに着いています。
(注3)小栗判官と照手姫の物語は、歌舞伎や浄瑠璃にもなっている当時の有名なファンタジー。もちろんどちらも架空のキャラですが、そのお墓は藤沢市の遊行寺に現存しているのでお暇な方はご覧ください。
(注4)古くから参拝者用の宿坊だった岩本院。現在は「岩本楼」という旅館となって営業を続けています。くわしくは岩本楼さんのサイトをご覧ください。
(注5)ただし現在では建長寺の国宝など文化財の数々は近くの鎌倉国宝館に移されていますので、こちらへもぜひ足を運んでみてください。
(注6)政子が三島大社に奉納したと伝わる「梅蒔絵手箱」(国宝)に仮託したものか?
(注7)お堂は現存せず今は史蹟公園として整備されています。ちなみに最寄り駅は京浜急行金沢文庫駅です。能見台駅ではありませんのでご注意ください。
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