〈ノーベル文学賞の本〉「宰相の象の物語」イヴォ・アンドリッチ 栗原成郎訳 松籟社
コロナパンデミックの外出制限下で、旅行に行けない。旅行どころか自分の国にすら帰れない。なので旅行の代わりに、以前から興味があった世界各地のノーベル文学賞受賞作家の作品を読み始めることにした。
最初の作家は、ドイツにも縁の深い、ボスニア出身のイヴォ・アンドリッチの作品。サライェボのギムナジウム(日本で言うところの中学校)を卒業後、ザグレブ大学、ウィーン大学を経て外交官となる。1892年生まれ、1975年死去。1939年には、ヒットラーの時代にドイツ大使としてベルリンにも駐在している。ノーベル文学賞は1961年に受賞。
私の中でのボスニア・ヘルツェゴヴィナ関連の知識は、第一次世界大戦のきっかけである1914年セルビア人によるオーストリア皇太子の暗殺事件や、米国のPR会社の存在が注目された、高木徹氏のノンフィクション『ドキュメント 戦争広告代理店』等で知る内戦の姿である。要するに、表面的な国際社会で流れていたニュースしか知らず、彼の土地に住む、市井の人々の姿を見たことがない。わずかに知人がいるのみである。
だからこそ未だ見ぬ国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの世界観を知りたくなりイヴォ・アンドリッチの作品を探した。日本では既に絶版になっている作品もあるなかAmazonで取り寄せる。(なんて便利な世の中になったのだろう。)
実は、この『宰相の像の物語』を読んでいた頃は、日本の禅寺の和尚様から世界史を習っている真っ最中であった。(これもコロナ禍での世界の不思議な現象の一つである。世界が縮小化されて、オンラインで何処にでも繋がる。色々な価値観が画面上でミックスされてゆく。)そして、遥か古代の時代から国の政治や戦争に翻弄される人々の話を繰り返し聞いている時であった。
この作品も大国の歴史に翻弄される国の人が書いた作品なのだが、人間の表側も裏側も知り尽くしたような、日常的でありながら魔術的雰囲気の物語が美しい文章で綴られていた。『宰相の象の物語』は、幾つかの小品が入っている。権力や冷酷さ、悪のもとで意外にしたたかに生きる人々の姿や、道徳や、善悪などでは語れない人間の業深さや、魂に触れそうな微かな揺らぎが、一つ一つの作品から炙り出されており、私はあっという間にこの作家に魅了されてしまった。
なんて面白いのだろう!
という訳で、今度は、イヴォ・アンドリッチ氏のボスニア三部作の一つ『ボスニア物語』という作品を取り寄せた。既に日本では絶版になっているのか、古本からでしか調達できず、しかも黄ばみがかったページが昔風の赤い装丁で包まれているものだ。
欧州にいるのだから、少しでもその国の言葉がわかれば、もっと色々な作品が読めるのにと、キリル文字も見てみたが、勿論さっぱりである(あたりまえか。)日本では絶版の作品もどうやらドイツ語版ではまだ読めそうである。イヴォ・アンドリッチ氏が、人間を熟知して言葉を魔術の様に操れたたことも、この欧州で外交官で在れたことの要因の一つであろう。つくづく欧州は闇のように深いなと思う所存である。
因みにこちらの本の解説によると、イヴォ・アンドリッチの両親は共にボスニア人(カソリック教徒)で、彼自身は、フランス語、ドイツ語、今でいうところのセルビア語、クロアチア語(どちらもほぼ近しい言語)等、多言語を使いこなす。実は第一次世界大戦勃発のきっかけとなった「サライェボ事件」が発生した時は、関連を疑われて逮捕されたことがあり、外交官になったのは「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(要するに後にユーゴスラビアとなる)」においてであるとのことである。波乱万丈である。
参考文献「ボスニア・ヘルツェゴヴィナを知るための60章」柴宜弘・山崎信一編著・明石書店 「アナウンサーが読む 聞く教科書 山川詳説世界史」木村靖二・佐藤次高・岸本美緒 山川出版社 「ドキュメント 戦争広告代理店~情報操作とボスニア紛争」高木徹 講談社文庫