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鳥居の先で見た景色

今年の夏は、とにかく暑さとの戦いだった。人生で一番動きが抑制された夏だった。体力維持で行っているランニングも、三十分もすれば身の危険を感じ始めるので、途中から走る時間帯を夜に変えた。
そんな殺人レベルの猛暑は気づけば去り、六時には日も落ちるようになった。踝の痛みで走れない時は、散歩をするようにしている。その日は普段歩かない道を歩いていた。謙虚な場所に、朱色の塗装が大胆に剥がれている鳥居の姿があった。

神秘的な世界

鳥居から拝殿までは少し歩いた。その拝殿までの道のりは長い竹林に囲まれており、まるでジブリの世界のよう。こんな非現実的な場所が近所にあったなんて全く知らなかった。地面には大きい石が一定間隔で埋め込まれており、由緒正しい旅館の庭のよう。「和」が頭のイメージの通りに再現されている。
どの神社に行ってもこういう光景が絶対に広がっているのだろうか。どこもこんな様式なのだろうか。神社や寺院とは一切交わることなく今日まで生活してきた筆者は、それらには疎いのでよくわからない。

高々とそびえ立つ竹

竹林に見守られながらそこを通りすぎ、開けた場所にたどり着いた。はっきり言ってそこは荒れた地と化していた。地面に生える雑草は長く伸びており、木々も屈まないと前に進めないくらいに茂っていた。この夏に突入してから、一度も手入れがなされていないのが明白だ。神主さんは本当にいるのだろうか。すこし怖くなってきた。
一方で大量のお神籤が結ばれていた。拝殿の傍にあった絵馬掛け所にも沢山の絵馬が掛けられていた。ということは、筆者以外にもここに通う人が沢山いるのだろうか。真相は分からない。

奥で木枝が縦横無尽に成長している

褪せることのない精神性

ネット、スマホ、SNSの順番で世に出され、それらテクノロジーの賜物が世界を便利さと楽しさで満たした。一方で、利便性や合理性が圧倒的に求められる時世となり、それは「信仰」や「伝統」の存在意義を軽視する結果も招いているのではないか。
その末路として個人の幸福実現が近づくのであれば、決して悪い風潮とは言わないが、本当にそうなるのだろうか。老いて若い体力と柔軟な脳を失ったときに、科学技術では埋められない物足りなさを感じ始めるのではないか。そんな時のために、神社などに身を寄せたくなる精神を育ませておきたい。そういう精神を真っ向から否定する必要なんてそもそもない。

written by Sign