時間と空間が生む「ずれ」と叶わぬ恋、又は「秘密」を閉じ込めること ~映画『2046』レビュー~
先日ウォン・カーウァイという香港出身の監督の映画『2046』を観た。
ウォン・カーウァイというのは映画好きにとっては知らぬ者はいないほどの名匠であり、『花様年華』や『恋する惑星』などで知られている。
ここでは彼の作品『2046』へのレビューを書きたい。
あらすじ
本作品は過去の叶わぬ恋の傷をまだ引きずっている男チャウ(トニー・レオン)が出身地である香港に戻るところから始まる。本人は元々新聞社で記者をやっており、香港に帰ってきたあとは新聞への寄稿で何とか生計を立てていた。やがて彼はとあるホテルの一室で暮らしだす。その部屋は、彼が妙に記憶に残った「2046号室」の隣にある。そのホテルで、彼は様々な人間ドラマを経験もしくは目の当たりすることになる。彼と隣の部屋に住む女性バイ・リン(チャン・ツィイー)との肉体関係、ホテルオーナーの娘ワン・ジンウェン(フェイ・ウォン)と日本人タク(木村拓哉)の恋、日本人嫌いでその恋を絶対に認めようとしないホテルオーナー….
やがて彼は『2046』をタイトルとする小説を書き始める。曰く、近未来の世界では、「2046」という場所がある。そこでは、全てが変わらずにあり続ける。多くの人がそこに行ったものの、帰ってきた人は誰もいない。ただ唯一、小説の主人公(木村拓哉が1人2役で演じる)だけはそこから抜けることができた。色んな人に「なぜ2046から出てきたのか?」と聞かれても、彼は答えをはぐらかす。小説の主人公はやがて2046から外の世界に向かう列車にいるアンドロイドの女性(フェイ・ウォンが1人2役で演じる)と恋に落ち、彼女にいうのであった。
「君に教えたい秘密がある」
さて、ここから先はネタバレ込みで本作品のレビューを行う。
本作品をいつか観たいと思う方(特にウォン・カーウァイ監督の作品が気になる映画好き達)は、ぜひ作品を観てから読んでいただければと思います。
そうでないという方、ただ単に偶々本記事を開いてなんとなく読もうと思った方は、お任せします。
(このような長めの注釈をつけるのは、ネタバレに極度に神経質な映画好きという人種が実は世の中でかなり奇特だということに最近気づいたからである。。。)
時間:美しい思い出としての「ずれ」た過去
さて、本作品はそもそも『花様年華』というウォン・カーウァイ監督の別の代表作の続編である。
本作品は、配偶者をもつ男女二人が出会う話である。二人は、かなり親密な関係になったものの、最後に男性(トニー・レオン)が女性に「俺とシンガポールに行かないか?」と聞き、女性が最後は断ったことで、この関係は終わりを告げたのだ。
『2046』は男がシンガポールから香港に戻る部分で始まる。
この節では、『2046』における「時間」という側面に焦点を当てたい。
劇中の小説に、美しい過去が変わらずにある場所としての「2046」があるが、木村拓哉演じる小説内の主人公(トニー・レオン演じる映画の主人公チャウは彼と自分を重ねていた)は2046から抜ける。一方で、映画内の小説世界の描写では、彼が列車の中にいる描写しかないため、果たして本当に抜けられたかは不明である。
なぜ小説の主人公は、「2046」から抜けたいと思ったか?その答えは、おそらく映画の主人公(=トニー・レオン)にとって戻りたい美しい過去(=映画『花様年華』で描かれた物語)というのは、ずれたものでしかないからではないか。
本作では、「恋はタイミングが全て」というセリフが登場する。一方で、映画『花様年華』では、男と女は互いに配偶者がすでにいるというずれたタイミングで出会ってしまった。それゆえにその恋は叶わぬものでしかないのだ。戻りたい美しい過去がずれたものであるという葛藤を、映画『2046』の主人公チャウは小説「2046」に投影したのではないか。
『花様年華』で経験した恋以降、チャウは「ずれ」がある恋しかできなくなる。シンガポールでの恋(コン・リー演じるスー・リーチェン。本登場人物は『花様年華』に登場した女性と同名)、そして香港のホテルでのバイ・リンとの関係。バイ・リンとは当初、肉体関係なしの飲み友達をチャウは目指そうとした。しかし、ある晩で発生した肉体関係をきっかけにチャウは彼女と肉体を頻繁にかわす関係になる。この時点で、香港でプレイボーイとして数多くの女性と関係をもってきたチャウにとって彼女はそれらの多くの一人でしかなくなったのである。それは、肉体関係を持たずに時間をかけて絆をはぐくみ最後まで肉体関係の有無が明示されなかった『花様年華』での恋とは全く異なるものだし、チャウも当初はバイ・リンとそのような恋ができると思っていたかもしれない。やがて、チャウはホテルオーナーの長女ワン・ジンウェン(日本人タクの恋人)に恋をする。しかし、彼女との恋は叶わず、むしろチャウは彼女の一見叶わないようにみえたタクとの恋をサポートし、最終的には叶うきっかけを作った。このようにみると、『花様年華』以降ずれた恋しかできなくなったチャウが、バイ・リンとワン・ジンウェンにもたらした結末はひどく対照的である。つまり、バイ・リンには自分が経験したのと同じようなずれた恋をもたらし(奇しくもバイ・リンものちにかつてのチャウと同じようにシンガポールを訪れる)、ワン・ジンウェンにはその恋を成就させた(しかもずれた恋となる可能性が高かった恋を成就させた)のである。
チャウの「ずれ」についてもう一つ印象的な場面を紹介しておきたい。劇中でワン・ジンウェンはチャウが小説を書く上でのパートナーとなる(かつての『花様年華』におけるスーと同じように)。やがて、チャウが小説「2047」を完成させる前に、ワン・ジンウェンは日本に行ってしまう。残されたチャウは、小説を書きあげる。それをワン・ジンウェンに送ると、彼女は手紙で結末を悲しすぎるから書き直してほしいと述べる。チャウはそれを受けて小説を書きなおそうとするも、100時間経っても何も書けないのであった。では小説「2047」のオチとは何か?アンドロイドの女性に恋した男性は何度も彼女に自分とともに来てほしいと願うも、彼女は何も答えなかった。やがて、男性は悟るのであった。「彼女は別の人を愛している」と。
恋はタイミングがすべて。愛する相手と出会っても、その人が別の人をすでに愛していたら、いくらその二人が愛し合う関係になる可能性があっても、その恋は叶わない。
まさに、このずれが「秘密」を生み出すのである。
空間:場所がもたらす別れと回復しない「ずれ」
上を受けて、「秘密」について書きたいが、その前にもう一つ別の観点「空間」について触れたい。
本作品は、局面が変わるたびに場所が移っている。例えば、前作の『花様年華』だと香港が主な舞台であり作品の最後にシンガポールに移る。『2046』ではシンガポールから始まり、主人公が香港に戻った後の話が映画のメインとなる(他にも、ワン・ジンウェンが日本に行ってしまうことや、現実と小説世界の行き来など様々な場所の移り変わりがある)。
当時は今みたいにオンラインのやり取りができないので、場所の転換は別れもしくは関係性の深化のいずれかを意味する。より具体的には、ある人が相手に「~~について一緒に行かないか」と申し出ると、相手の返答次第で、その関係性が今後も長く続くかそれともそこで終わってしまうかのいずれかが決まる。『花様年華』から今作『2046』にかけて、このような場所の転換が発生した場合、たいてい関係性の長期化ではなく、別れがもたらされる。特に、主人公チャウは別れしか経験していない(作品全体を通じてもおそらく関係性の長期化につながった場合はワン・ジンウェンを日本に行くことを認められたことくらいではないか)。
この場面の転換に関連していえば、もう一つ印象に残っているのが、本作で異なる言語同士で登場人物たちが会話するシーンが数多く登場することである。チャウとバイ・リンは広東語と北京語で会話し、タクとワン・ジンウェンは日本語と広東語で会話する。もちろん、これは演者の母国語に配慮した演出だという可能性もあるし、広東語と北京語に関して言えばある程度の言語間の近似性があるので片方がもう片方の話す内容を聞き取れるという事態は(相手の言語に十分に接した経験があれば)発生しうる。しかし、これらの理由を排し、純粋に作品の観点から見たときに、このような異なる言語同士での登場人物の会話は何の意味があるのだろうか。思うに、言語はそれが話されている空間を代表する。例えば、広東語なら香港、北京語ならそれが公用語である中国大陸や台湾など、日本語なら日本。違う言語で会話しあう二人の組み合わせは、お互いに同じ場所にいても、そして互いの言語を理解していても、そこには本質的な二人のいるべき場所(空間)のずれがあり、その言語の空間に行く/戻る瞬間が関係性の期限であるという風に考えられる。例えば、広東語を話すトニー・レオンは香港に戻り、日本語を話す木村拓哉は日本に戻り、チャン・ツィイーは北京語が公用語であるシンガポールに行く。但し、またしても唯一の例外となったのがワン・ジンウェンである。彼女は日本に行くことを最後に許されるのであった。
まとめると違う言語で会話する二人は、たとえ同じ空間にいても、そして互いの言語がわかっていても、いつしか訪れる(空間によってもたらされる)別れを運命づけられているのではないだろうか。
結び:都市に秘密を閉じ込める空間はあるのか?
これまでの考察を踏まえると、『2046』において描かれる「秘密」というのは、時間と空間のずれが生み出す別れとそれによるやり場のない感情である。そして、本作の舞台でもあり、ウォン・カーウァイ監督の出身地でもある香港というのは、まさに急速な「時間」の流れの中で「空間」の性質の変化を余儀なくされる儚い存在である。
香港は1997年にイギリスから中華人民共和国へ返還されるが、その前後である90年代と00年代前半はまさにウォン・カーウァイ監督の黄金期である。香港返還への自身の意見を表現した『ブエノスアイレス』や「20世紀の香港への別れ」を告げる『花様年華』と同じように、本作も監督の香港への思いが投影されている。仮にチャウが小説内の主人公に自身を投影しているのと同じように、監督も映画の主人公に自身を投影しているとすると、在りし日の「香港」こそがウォン・カーウァイ監督にとっての「秘密」なのではないだろうか。一人の考えすぎな映画ファンの妄想に過ぎないのかもしれないが、
本作では、昔の人は木に穴をほってそこで自分の秘密を話し、その後穴をふさいで秘密を隠したという逸話が登場する。これは『花様年華』の最後で、チャウがした行為だが、思えば、これは時間からも空間からも秘密を隔絶する行為ではないだろうか。人の心の中にいるとどうしても秘密は、色褪せたり、よみがえってその人を不幸にしたり、様々な形で変化する。人の心の中というのは、時間の変化に伴って(心の中という)空間の性質が変容する場所である。自分の心ではなく、木の中に秘密を告げそこを塞ぐことで、秘密は時間からも空間からも守られ、変わらずにそこにいられるのである。
そういえば、木村拓哉演じる小説世界の主人公は、2046から外の世界に向かう列車の中で、恋をしたアンドロイドの女性に「俺の秘密を教えようか」と尋ねる。木のエピソードをこの映画でナレーションしたのも木村拓哉だが、木がないとせめてほかの誰かの心に自分の秘密を託したいと思うのだろうか。当然、他人の心は木と性質が全く異なる。だが、もしその相手と永遠に続く愛を持てるのなら、秘密を託すことは価値のあることであろう。最も永遠に続く愛なんてありそうもないが。
仮に在りし日の「香港」がウォン・カーウァイ監督にとっての秘密だとすると、映画『2046』はまさに「香港」という秘密を閉じ込めた穴である。1960年代の香港を描いた映像と近未来の世界を交互に描いた映像に魅了されながら、私はその裏にある言いようのない儚さに心を叩きのめされてしまったのであった。