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廓庵禪師『十牛圖』エピローグ

2023年のInstagram @tokujiro_official で投稿した”アスリートのコーチング”を加筆

廓庵禪師『十牛圖』エピローグ
『只管』~ただひたすらに
佛道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふなり。自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり。自己(じこ)をわするるといふは、萬法(ばんぽう)に證(しょう)せらるるなり。萬法(ばんぽう)に證(しょう)せらるるといふは、自己(じこ)の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心(しんじん)をして脱落(とつらく)せしむるなり。

佛道(ぶつどう)をならふといふは 自己(じこ)をならふなり

仏道(ぶつどう)をならうこととは、自己(じこ)をならうことである。自己(じこ)をならうこととは、自己(じこ)へのとらわれを忘(わす)れることである。自己(じこ)へのとらわれを忘(わす)れることとは、一切(いっさい)の物事(ものごと)によって(自己を)明(あか)らかにされることである。一切(いっさい)の物事(ものごと)によって(自己を)明(あか)らかにされることとは、自己(じこ)の身(からだ)と心(こころ)、他人(ひと)の身(からだ)と心(こころ)を、自由(じゆう)の境地(きょうち)にさせることである。

自ら自身へのとらわれを手放し、道理のままに生きる

仏道を学ぶことを、他人事として捉えるのではなく、常に自らのこととして学ぶ必要があると示している。ただし、自ら自身へのとらわれは手放す必要があり、そうすることで、この世界全体を貫く仏道の道理のままに生きることになる。

ただひたすらに今を見つめる

『ただひたすらに。』道元禅師は、『坐禪』を習うと申してある。その坐禅は「ただひたすら坐る」だけ。人の身体と心というのは、常に揺れ動いているもので、それを『ピッタ!』と止めて同じ姿勢を何分も何十分もすることは難しいように、人生が同じ平坦かつ単調なわけがない。だからこそ、「ただひたすらに今を見つめる」ように、坐禅のときは「息を吸うときは息を吸うことに徹し」て、「掃除をするときは雑巾や箒になりきる」ことがとても重要となる。この努力の積み重ねが「十牛図」で説かれた『菩提心』となる。この『菩提心』を突き詰めていくことで『普遍』と『不変』を理解できるようになるが、ヒトの一生という時間は無限にあるわけでなく、常に移り変わっていく「当たり前の保証」というものはないのである。それゆえに、目的を忘れ意義を失わないためにも、「ただひたすら」を実践してきくのである。

廓庵禪師『十牛圖』~エピローグ
あの時、初めて会ったApple創業者の故人と午前中から外が暗くなるまで何時間くらい話しをしただろう。
僕は『僕の師匠にあたる人から「偉くなるなよ。立派にもなるなよ。只々有難い人さまになりなさい。」といってもらえた。これが僕の自身の最大の支えであり基礎になっている。』と話しをした迷い多き世界の成功者は、僕と逢った後は、『シンプル』と『コンパクト』を旨に世界で大きな花を咲かせてくれた。25年ほど前の時点で氏の年下の先生であった僕だが、その翌日からはアメリカで生きていく僕にとって『大きな力を与えてくれる支援者』になってくれていたことに対して改めて氏に謝意を届けたい。

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