個人的文庫解説目録 第2回 幸田文『男』
庄野潤三に続き今回は幸田文『男』を取り上げるのだが、作家というものは、よくものを見ている、と思う。
いや、私がよくものを見る作家が好きなのだ。幸田文は「見る作家」なのである。
本書は昭和三四年に雑誌『婦人公論』で連載された「ルポルタージュ 男」を中心に、昭和二〇年代の文筆家として歩み出した初期のものから、晩年の昭和六〇年までの「男」に纏わるエッセイをまとめた文庫オリジナル編集である。
「ルポルタージュ 男」が連載された昭和三〇年代はまさに幸田文が最も精力的に活動した時期と言って良い。
昭和二二年に父露伴を看取った幸田文は、父との思い出を綴った「雑記」「終焉」を相次いで発表し文筆家として歩み出すと、二〇年代には「みそっかす」「草の花」「黒い裾」などを矢継ぎ早に発表。そして、三〇年に名作「流れる」の連載が始まる。この作品により第三回新潮社文学賞と第一三回芸術院賞を受賞し、作家としての地位を築く。
その後、三〇年代にかけて「おとうと」「猿のこしかけ」「北愁」「台所のおと」など佳作を立て続けに発表してゆく。本書はこうした作家として脂がのりきった時期に発表された作品の一つである。
しかし、「ルポルタージュ 男」が連載された当時著者は既に五五歳を迎えている。文筆家としてのデビューが四三歳と、かなりの遅咲きではあったが、本書を読むとそのような感じを全くさせない。
開幕冒頭の「濡れた男」では東京から遥々北海道羅臼へ鮏漁を見に行く。「確認する」では特急こだま号と機関車に同乗して名古屋、岐阜を経由して福井まで行く。「傾斜に伐る」ではなんと静岡県の山奥に登り、木の伐採作業を見にゆく(この取材の時の写真が巻末に収録されている)。
五五歳の仕事とはにわかに信じがたい。さらには「救急のかけはし」では救急車に同乗し、暴力事件発生現場や交通事故の現場にも隊員とともに駆けつけたりもする。なんたるバイタリティだろう。
注目すべきは、この「ルポルタージュ 男」での取材が、のちに『木』や『崩れ』(「傾斜に伐る」)『闘』(「切除」)などの名作に繋がってゆくことである。この連載で取り上げる職業を決めたのは誰なのかはわからない。著者が元々興味を持っていたのかもしれないし、編集部が指定したのかもしれない。だが、著者にとって一つの画期になった作品であることは間違いない。
冒頭で私は幸田文を「見る作家」だと言ったが、それを最も伝える文章が「まずかった」である。
開幕冒頭、著者のお詫びから入る。
「今月は作文がだめになりました」と。
本来ならば海上保安庁の仕事について書くつもりであったのだが、何故「今月の作文がだめにな」ったかといえば、「海のパトロールを実地に見るつもりが、海上視察ならびに救難訓練の見学になってしまった」からである。別に良いではないかと思う読者もいるかもしれない。訓練でも仕事は仕事である、と。
しかし、著者はこう言う。
惚れきれない対象を無理して(惚れたふりをして)書くことは、読者にすぐバレてしまうのだと筆者は言う。
しかし、これは筆者にとって本質的な問題なのだ。
実は海上保安庁より前に、もう一つ著者が書き損ねた(見損ねた)仕事があった。それは警視庁捜査一課の仕事だ。
著者が取材した当時(昭和三四年)、世間を震撼させたスチュワーデス殺人事件が起きたばかりであった。
著者はこの事件の捜査に立ち会うことに強く惹かれるが、捜査一課の担当者からは断られ、代わりに事件発生から時間の経過した別の事件の捜査を勧められる。著者はあまり気乗りしないものの了承し、捜査に同行する。しかし、著者の不安と不満は募ってゆく。
「心臓を見たいのです」という言葉に著者の根っこと言えるものがあると思う。少し後に出てくる文章では、心臓を見れなければ「あぶなかしい気がして書けません」とまで言っている。
自分のこの眼で、はっきりと(表面的な意味でなく)見なければ自身の文学世界は立ち上がってこない。著者にとって「見ること」と「書くこと」が深いところで分かち難く結びついているのだ。
結局、著者は警視庁捜査一課の文章を書くことを断念する。
この本では、著者が出会ってきた「惚れた男」がたくさん出てくる。しかしながら、ただ単に「男」というものを褒め称えた本ではない、と私は思う。そもそも幸田文にとっての「惚れる男」とは一体なんなのだろう。それはそのものずばり「プロフェッショナルとしての男」である。
この作品に出てくる男たちは皆一様に、決して慌てず、急がず、無駄口ひとつきかずに黙々と自分の仕事を着実にこなしてゆく。著者はそうした男たちの姿に「誠実な強さ」と「美」と同時に「寂しさ」をも見出してゆく。
この作品が書かれてから六〇年以上の時が過ぎ、社会状況も変わった今もなお、「惚れられる人」がまだこの国にいてくれることを願うとともに、その人たちのことを理解し「だいじにしなければなあ」と、この本は思わせてくれる。
『男』講談社文芸文庫, 2020年刊
「惚れる男がいてくれることは、なんと嬉しいことだ」
羅臼の鮏漁、製鉄所、森林伐採、下水処理、ごみ収集、救急医療、橋脚工事——
日常の暮らしを支える現場で黙々と働く男性たちに注ぐ、やわらかく細やかな眼差し。
現場に分け入り、プロフェッショナルたちと語らい、自身の目で見て体感したことのみを凛とした文章で描く、行動する作家・幸田文の随筆の粋。
(内容紹介より)
幸田文(1904・9・1〜1990・10・31)
小説家・随筆家。東京向島生まれ。文豪幸田露伴の次女。女子学院卒。1928年結婚。10年間の結婚生活の後、娘玉を連れて離婚。幸田家に戻り、父の傍らにあって家を守り、父の最期を看取る。47年父との思い出の記「雑記」「終焉」「葬送の記」を執筆。その清新な文体が好評を博し、随筆家として出発。56年『黒い裾』で読売文学賞、57年『流れる』で芸術院賞等を受賞し、小説家としても文壇的地位を得た。70年頃から、奈良法輪寺三重塔の再建のために奔走した。著書は他に『おとうと』『闘』『崩れ』『木』『台所のおと』『きもの』等多数。『幸田文全集』全23刊別巻1(岩波書店刊)がある。
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