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【読書記録】 昨夜のカレー、明日のパン

今回は、木皿泉さんの、”昨夜のカレー、明日のパン” です。

この本への記憶

恐らくこの本を初めて読んだのは、高校生の頃だったと思う。学校の図書室で、手当たり次第に本を借りて読んでいた頃。たまたま手に取った作品のうちの一つ、だっただろう。

あまり印象に残っていないのは、あの頃の私には現実味がなかったからなのか、ただただ当時いろんな本を手当たり次第に読みすぎていたからなのか。さらりと読めてしまうからかもしれない。読み返してみてそう思った。そしてやっぱり、高校生の私にはこの物語のなかの日常を、近くに寄せて感じることが出来なかったのだろうと思う。

改めて読んでみて

一人の、もうここにはいない人間がつないだ縁。死を中心に繋がっている人たち。そういう表現は変かもしれないけれど、この物語に出てくる人たちは、少なくとももうここにはいない一人の人間を起点に繋がっている。そして、にもかかわらず、そのそれぞれの人が、どうしようもなく生きているんだなあと思わされる。
さくさくと、時に笑いながら、テンポよく読み進めていく。気が付けば読み終わっている。
みんなそれぞれ大変な出来事に直面しているのに、読み終わった時に明るい気持ちになる。”さわやか”と表現するのが近いような。読みながら、生きることをすごく実感する。生きることのどうしようもなさを、どうしようもなく、私たちは生きているんだということを。そしてそれを肯定してもらっているような、そんな気がする。

物語のなかの登場人物なのに、あぁこの人たちは私の知りえない日々をたくさん積んできたんだな、これからも積んでいくんだな、そういう風に思う。この人たちだけじゃない、世の人々みんな、私には見えないところで、きっといろいろあるんだろう。

結婚したりしなかったり、仕事に打ち込んだり仕事ができなくなったり、だまされたり、恋したり、喜んだり、悩んだり、落ち込んだり。どうしようもない日々は、何もしなくても進んでいく。傷はいつしか癒えていくし、忘れたくても、忘れたくなくても、薄れていってしまうものはある。それは記憶かもしれないし、感覚とか、感情とか、形を持たない朧げなものかもしれない。

そしてそんな、この物語の、すべての起点にあるのは、昨夜のカレー、そして、明日のパン。

日常と日常がつないだ縁が、運命のような、でもやっぱりただの偶然のような、そんな、ありふれているようで、やっぱりありふれていない出来事。

偶然とか、運命とか

どうしようもなく生きていると思うこと。
不思議に思う。
同じ瞬間、同じ時間の中に、全人間分の人生におけるその一瞬が重なっていること。
すごく不思議だと思う。

人と人とは隔絶されているわけではなくて、ある程度誰かと、時間だったり、空間だったり、何かしらを共有して生きている。それは当たり前。それなのに、共有しているその瞬間でさえ、その人、その人の、一人ずつ分の時間がそこに存在している。
私が友人と一緒にご飯を食べる時、私はその人の人生の一瞬に登場していて、その人は私の人生の一瞬に登場している。二人の人生はちゃんと二人分で、それはそれぞれ独立している。でも時にはその一瞬で、その先の人生が大きく変わってしまうことだってある。

そう思うと、日常の積み重ねが人生であり、偶然であり、運命でもあるような気がする。
その一瞬の偶然でも、あとから思えば全部運命になる。”今”という瞬間がどんなに希少な瞬間であるかに思いを馳せるほど、そこに至るまでのすべてが、運命になる。たどるべき道をたどって今にたどり着いたような、そんなきもちに。

一人一人の人間が生きていること。それが集まって、作用しあうこと。その説明のつかない何かが、人にそれを運命と呼ばせているのかなぁ。
そうだとすれば、人生のいろいろも、悪くないのかもしれない。

明日も笑って生きよう。おいしくご飯を食べて、好きな人たちと会って、楽しいことを話して。

あと全然どうでもいいけど

森ガール、懐かしいな、と思いました。今だってそれなりに山登り女子はいるんだろうけど。と言うか私の周りにもいるけどさ。なんかいっとき、流行ったな。って。
この本を読んでちょうどそんなことを考えていた直後、会社の同期に山登り誘われたけど、断ってしまった。

本の感想なのか自分語りなのか分からない文章、今回も最後まで読んでくださった方、大感謝です。


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