見出し画像

私と日航機事故と坂本九

実は、今回の話を書いてる間は、辛くて、糖分必要になり、食べ過ぎで太ったか?
何回も何回も色々な坂本九の曲を聴いたから。聴くと考えるから。

演奏は作曲の中村八大が、ピアノ伴奏した、『上を向いて歩こう』

洋楽のお気楽な話だったハズが、歌手坂本九の音楽と人生について、書く理由の一端には、超個人的な理由があって。

書かないとな気持ち

1つには、大好きで音楽好きの先輩として、私に色々と教えてくれた叔父が、彼と作曲家の中村八大について、いつも評価し、リスペクトしてことは、かなり大きくはあり。
もう1つは、あの事故当時、おそらく飛行機に何かがあった瞬間を、偶然見たこと、その時にあの曲『上を向いて歩こう』が頭の中で流れていたことが、やはり忘れられないからで。
あの時にあの曲が、頭の中に浮かんでいたのは、多分偶然。
少し上を向いて空を見てたから、単純に出て来ただけかも?で。
が、彼から何かメッセージなのか、訴える力があったかも?は感じてしまうから、やっぱり坂本九のことは、忘れてはいけない人になってしまったので。

日航機墜落事故について

あの日航機の墜落事故。
85年の、夏休み中の出来ごと。
まだ、遺族の方々も含めて、新たな真相の究明に尽力されている方も、何人もいらっしゃるようで。
今回少し調べてみたら、フライトレコーダーやボイスレコーダーと、実際の目撃証言や、機内から撮影された写真から、ルートなどを検証すると、位置や高度がずれていたり。
何らかの軍に関係する武器が使用されたのでは?とか、色々な話がネット上に出ていたり、新たな著作物も出ているようで。
何が本当か、真相がわかったのか、わからないのか、素人の私にはわからないけど、証言としては役には立たないかも知れないけれど、見たであろうことを残しておくべきかと考えたので。

偶然私が見たこと

ほぼ、今まで誰にも話してなかったけど、あの時に偶然、伊豆の海岸にいて。
社内恋愛だし、彼氏との旅行も親にバレたら、まだマズイ時代。笑
付き合って4か月ぐらいで、楽しい時期ではあったけど、彼は簡単に言うと仕事は出来るけど、何せ元はクズのバンドマン。
私は顔は、あまり好きなタイプじゃなかったけど、一般的にはルックスも良いし、細身で高身長。弁は立つし、面白い。
元プロだから楽器も上手い。けど女性を口説くのが、趣味みたいな人で。笑
色々と怪しいことも、あったりはしたから、内心は複雑で。恋愛についての、詳しい話は改めて。
4月半ばに付き合い始め、急に行ったから、わりと鄙びた民宿と、岸壁しかないような場所で。正確に何と言う地区だったかは、覚えてないけど、おそらく浜から海に向かって座ってたし、半島の先端に近い場所。河津町付近だったかと。
民宿は、エアコンもなかったから暑いし、6時過ぎから、夕飯の7時前まで浜で、2人でぼんやり座って涼んでて。
海水浴と日焼けで疲れてたし、ほぼ話さずに、相手は多分海を見てた。
私は、ぼんやり空を眺めていた。空を見てたから、多分偶然だけどイントロから、『上を向いて歩こう』が、頭の中で流れてて。
ずっとあまり幸せな状況じゃなかったから、あの歌詞の「幸せは空の上に」を思い出したりして、あの雲の上に行くってことは、天国なのか?とか、ぼんやり取り止めの無いことを考えたり。
もちろん、坂本九や、他に自分にも関係のある人が乗った飛行機が、羽田からだとあのあたりを飛ぶのも、全く何も知ずにいた。

坂本九が最後にレコーディングした曲になった『心の瞳』。今は合唱用編曲もあり、合唱でも歌われている曲。
サッカーの川崎フロンターレのホーム試合のお見送りの曲にも。川崎の出身で、川崎を愛してた人だから。

爆発💥のような光

当日、夕方には雲が多くなってたけど、まだ空も周囲もかなり明るかった。星どころか月の輪郭も見えなかった。
夕焼けもなく、白っぽい空だった。
空を眺めてたけど、ずっとぼんやりだから、上を向いてた訳じゃなく、体育座り?して、少し首を曲げて、正面より少し上の方向を見てた程度。
で、突然火の玉みたいに、バッっと一瞬だけ、ちょうど私の眺めてたあたりが、明るくなって。
明るくなったから、飛行機の翼とかが一緒に見えたから、飛行機が爆発した?って思ったけど、すぐにまた全く見えなくなった。
飛行機そのものも、白い空、雲で見えなくなった。光った瞬間だけ、飛行機だってわかった程度。
隣にいる彼に聞いてみたら、「え!何も見てないけど、空見てなかったし」って。
何かがぶつかったかは、見えてなくて。
音はしてない。そこまで近くなかったし。
近年、あの事故はミサイルが当たったからって本が出て、そんな説も昔から色々言われて来たけど。
私が見たのは、何かが飛んで来た軌跡も見えず、ぶつかったようには見えず。
見えた感じだと、飛行機そのもの、お尻に近い翼の後ろあたりが、何故か爆発した感じ。
ちょっと花火が開くような感じで、飛行機から火が出たような。が、その光は一瞬で消えた。おそらく3秒とか長くても5秒ぐらいか?
時計は持ってなかったけど、後で調べたら、時間的にもほぼ、伊豆沖を飛んでた時刻で。
その光は一瞬で、尾翼が脱落した時なのか、隔壁が破れた瞬間だったかは、私にはわからないけど。
絵文字の💥のこんな形で、色はオレンジよりは、肌色ぐらい。白に近い色。
高さも正確にはわからない。
けど、普通にかなり上空を飛んでいたら、光が出ても飛行機の輪郭の一部は見えないハズ。

光は、飛行機のライトの大きさではなく。尾翼とかぐらいの大きさで、尾翼の根元あたりが、光った。
私は飛行機の離発着ルートに、なっている場所の近くに住んでいた時期もあり。
マンションの14階からだと、ほぼ水平より少し上を、飛行機が上を向いて高度を上げて飛ぶのが、部屋の中からも見えた。
ルートの真下にある国道を車で走ると、凄く低いところを飛んで、今にも道路上に落ちて来そうなぐらい。飛行機の下側を見たことも、何回かある。
そんな経験からすると、夜に星か?って見ていると、ゆっくりと移動する光だから、飛行機だってわかるような、普段見かける高さよりは、かなり低い位置だったと思う。
飛行機のライトが、たまに夜空を見ると見えることがあるのは、知っていたし、見た方もたくさんいらっしゃるかと。
ちゃんとした説明だと、Beacon lights
衝突防止灯と言うらしく、anti-collision lightとも。航空機同士の衝突を防止するための灯火で,唯一の閃光灯。
飛行機の胴体の上下に付けられた赤色の閃光灯。最近は、白いのもあるらしく。
あれでは無い。
もっと大きなサイズの、爆発したように真ん中から広がる感じの光で。

何かしらの感はあるほう

関係ないけど、幼いころから夜中にすりガラスなのに、そこに人の顔が見えたりして、怖く眠れない子供で。いわゆるちょっとカンは鋭いほう?
何か嫌な予感とかはたまに感じるし、オカルト映画を観たら、夢に見るタイプだから、ほぼ中学以降は観てない。『貞子』も全く観てないし。
子供時代の『番町皿屋敷』のモノクロ映画でも、ちゃんと夢にみるタイプで。笑
お化けと一緒に、お皿を延々と数え続ける夢。小学生には、超怖かった。

生前可愛がってくれた、JAZZ叔父の母親、私のおばあちゃん。
亡くなってから直後は、頻繁に夢を見た。怖くない夢だけど。
その後は、私や家族が危ない時や、自分の息子が死にそうになると、夢に出てくる。
兄弟が6人だから、まあまあな回数。
まだ、2人残ってるけど。笑
後で聴いたら、そうそのあたりの日に、ちょうど具合が急変して…な話を聞いても、最近は驚かないけど。
JAZZ好きの叔父が、急変した時も夢に見た。具合が悪いとは聞いてなかったから、確かめる連絡をせずにいたら、翌日亡くなったと電話が来て。
あーってなった。
阪神淡路の地震前も、県内在住で被害は少なかったけど、ずっと揺れた地域。
あの前には、まさかの光景の夢を見た。
地震で、2階にいて部屋の端から端まで、揺れるたびに転がって移動し、最後は2階が潰れて、家がペシャンコになる。おばあちゃんは、いつも夢の中にはいる。
この時もいたし、震災の3日前。
あり得ないような光景だと思ったけど、実際には神戸の人は、そんな状態だったし、立って歩こうとしたら、私の住む場所でも吹っ飛ばされたから、あの夢は本当に予告してくれてたんだ…で。
それ以降、おばあちゃんが夢に出て来たら、注意するようになった。
お願いごと、家族の試験や大事な時の前に、真剣にお願いを毎日して、その後良い結果?の夢を見られたら、結果はまずまずなんてことも。
本当に大事な時しかダメだし、私が直接絡むお願いは、どうも叶わない。人のことを頼んだ時だけ。笑
おばあちゃんは、私の守護霊になったみたいだし。今は夢はあまり見ない。おばあちゃんを思い出しながら寝ても、夢に登場する回数は、極端に減ったけど。

すぐにテレビで確認はした

さておき、そんな私は偶然見たけど、何かはわからず、が嫌な感じはしたから、何かなかったか気になって「テレビ見よう」って言って、呆然としながら、宿に戻って。
テレビをつけたら、何もなく。
ずっとNHKのニュースを付けたまま。夕飯を食べ終わったころ、臨時ニュースで、飛行機が行方不明になっているって話が流れて。
それでも、さっき見た飛行機は、その後すぐ墜落した様子もなかったし、そのまま真っ直ぐ飛んで行ったように見えた。
伊豆沖を通るのかも、その時は知らなかったから、イヤな感じはするけど、当日は詳しく報道もなかったし。
でも行方不明の飛行機って?海にあの後墜落したのか?とか考えながら、皆んなが無事だと良いなぁって、漠然と考えながら疲れてたし寝た。
翌朝も朝からテレビを付けたけど、どうやら墜落は、群馬とか長野とか山のほうだと言ってたから、私が見たのは関係ないか…ってなり、ちょっと安心した気分でいた。
もちろん、墜落現場が悲惨な状況だったのも、わからなかったし、ほぼ生存者がいないのも知らずに、昼には車とフェリーに乗って帰った。
実家に帰っても、気になってたから、テレビはずっと流してはいた。
惨状がわかるにつれて、海からは遠い場所だし、あの爆発💥この絵文字みたいなことは、おそらく関係ないか?ってなり。
山に向かってた元が、伊豆沖だったのは、しばらくは報道はなかったかと。
まだ、正確な飛行機ルートも、ボイスレコーダーも発表されてなかったし。
が、わりと早くに坂本九が大島って本名で乗っていて、どうやら確認されたらしいことは、実家で知ったかなぁ。
身元の判明が早かったようだし。
その時は、まだ伊豆沖で異変があった話も出てきてなかったから、偶然歌が頭の中で鳴ってたことも、深くは考えずにいた。

『太陽と土と水を』中村八大曲。
お金より大事な物がある…な内容の歌詞。この曲は出だしは暗め、サビ以降はかなり明るくなる、不思議な曲。

会社で新聞を詳しく読んでた

関西の人がたくさん搭乗していたし、おそらく、お付き合いのある会社の葬儀もあるだろうと、休み明けは早めに出社した。
やっぱり未確認含めて、たくさんの関係する方が。
毎日、新聞とはにらめっこで、関係ありそうな会社の方の身元判明、葬儀の日時確認や、御香典袋の用意で、バタバタした毎日で。
専用の葬儀用アイテムは、何かと出番が多かった。やっぱりあの光は、気になっていたけど。
けれどその時期は、まだあの光は関係がわからないから、時間もわからないから、繋がりを考えてもおらず。
友人の弟さんや、先輩のお姉さんも亡くなっていて、曲が頭の中に流れていたことも、とりあえずは誰にも言わず。

時間が経って、伊豆沖を飛行していたこと、どうやらそのあたりで異変があったこと、漁師さんたちの目撃した記事を読んで、「あーそうだったのか」って、私の見間違いではなく、やっぱりあの瞬間はあったんだと。
で、今回調べてみたら、伊豆の漁師さんたちの目撃談が、全然出て来なくて。
著作権侵害でダメだけど、当時はどの会社もやってた、記事の切り抜きコピー。私は元々仕事として、新聞をざっと読んで、会社に関連する分野のニュースを、切り取って、分野別に分けてコピーする仕事もやっていて。
3人ほどで手分けして読んで。雑誌も経済誌とか、日経関係のを何誌も目を通してて。
読む新聞は、交換もしたけど。私は1番関係記事が多い、日経と読売を主に担当。毎日も読んでたり。
活字中毒の私には、嬉しい仕事だったけど、この事故の時期には辛い仕事だったのは確か。
搭乗者の企業の方の身元は、日経が早かったし、担当者からの連絡もたくさん入り、役員が葬儀に行くべきか?などの調整も、しばらくは考える時間もなく。
皆さん、状況が悪すぎて、身元確認がなかなか進まなくて。
ご遺族がショックで、判明しても葬儀までに時間がかかったりで、しばらくは五月雨式にそんな日々が続いてた。
そして、伊豆沖での異変が、報道され始めて、やっぱり私が見たのは、あの飛行機はあの事故の飛行機で、あの光は何かあったからの光だと考えるように。

誰かに知らせるか?

当時は、ネットも皆んなが気軽に使えるような物ではなく。
一般人が自分で、何かを発信する類いのツールはなくて。
後には、新聞記者の知り合いも増えたけど、当時はまだ新入社員だったから、ほぼ親しい人もおらず。
漁師さんたちから、情報が出ているなら、わざわざどこかに知らせる必要も無いと考えて。
場所も時間も、正確にはわからないし、何より皆んなにも内緒の旅行だったし。
伊豆に出かけたことは、話したけど、周りはまさか、爆発のような瞬間を見てるとは、考えてなかったから、特に聞かれることもなく。

歌い継がれる意味

が、やっぱりそれ以降、あの曲や他に坂本九が歌ってた曲を聴くと、事故を考えてしまう。
あの時伊豆沖から、乗ってらした方は、さぞや怖かったかと。機内の人の頭の中は、パニックだろうと感じて。
私が見たあの炎?光の感じは、やっぱり尋常じゃないから、飛行機に乗ってた人は、中からだと訳もわからないから、より怖かったんだろうとか。
機内だと何か音はしたか?のレベルの光だったし、物が落ちたりしたのは、見ていないけど。
騒ぎは無くても、普通に飛べたはずは無いだろうなぁは、光を見た私には理解する感じで。
あるブログでは、理系の方が物理方面から、色々と検証されていて、あの場所で尾翼が無くなっていたとしたら。
あの伊豆沖から、群馬の山の中までは飛行機の理論上も、ベテランパイロットの意見でも、何故飛べたかはわからないと。
言わば、飛行機は神技を使って、飛んだとしか、思えないと。
飛行機が飛ぶ簡単な仕組みはわかっていても、実は現代の飛行機は理論を超えた形で飛んでいるとしか、説明出来ないようなケースは、多々あることも書かれていて。
機内にいた人たちの恐怖感は、私にはわからないけど、色々と考えると、怖かっただろうに、とか無力感はあったのか?とか。
子供さんや、他の家族のことを考えたのか?ひたすら自分に大丈夫!って言い聞かせた人もいたかもなぁ…とか。今も時々考えたりはする。
『幸せは空の上に』の部分を聴くと、切なくなる。あの瞬間以降はおそらく、空には幸せはなかっただろうし。

サッカーのフロンターレは、坂本九の曲から、ご遺族とも交流があるようで。
そしてフロンターレは坂本九生誕80周年を記念し、浦和戦のこの日に、「九ちゃんランド」って言うイベントも開催。スタジアム外では、チケット無しで参加出来たようで。
で、ハーフタイムには、ご遺族の3人が、登場して歌ってる映像が、コレ。
コロナ禍だったから、心の中で歌って下さい!って呼びかけも、沁みるなぁ。

皆さんお元気そうだし、ちょっと安心する感じで。

坂本九の明るい声と、儚さのある中村八大のメロディーは、私に元気もくれる。
作品が残るって、素晴らしいなぁ…もある。
録音技術を、発明してくれたエジソンにも、その後の技術を開発してくれた、たくさんの技術者の方にも、感謝!
生まれた時にはレコードはあり、昔から録音が残っている人は、亡くなったとは、なかなか思えなくて。
頭では理解してても、心は亡くなったとは思えなくて。いつまでもひつこく思われるのは、相手には迷惑かも?だけど。笑

心には生きてるし、耳には残ってて。
中でもやっぱり、『上を向いて歩こう』は、洋楽を聴くようになり、よりリスペクトもするようになって。
大好きだったから、空を見ていて浮かんだ曲なんだろうし。
ビルボードの重さを知ってから、事故が約10年後。
何故そんなスペシャルな人が、空で怖い思いをして亡くなったのか?
海に墜落したほうが、多くの人が助かったのか?
友人の弟さんには、会ったことは無いけど、彼も怖かっただろうし。
何故わりと実家からはより遠い、伊丹の飛行機にしたのか?とか。色々考えても答えは出ないけど。
その後1年半後ぐらいに、その友人にも会って。彼は彼で事故で、自分の人生が変わり、まだまだ消化出来ずにいたようで。
その後ちょっと色々とあった。
夏にならなくても、坂本九の声や曲を聴いたら、思い出す。
後を追うようにか、約7年後には中村八大も亡くなり、近年永六輔も亡くなってしまい、トリオは消滅した。
ここまでの、曲と坂本九や中村八大の記事は、マガジン後半に。

どの曲も100年もしたら、民謡になってるかも?
『スキヤキ』は日本の民謡とか、表記される時代は来ても、曲は愛され続けるなら、それもよしかも…。

事故で亡くなられた皆さまのご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の皆さまが辛くない毎日を過ごせるように、ずっと陰ながらお祈りしています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集