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人に裏表なんてものはない

人に裏表なんてものはない。

と自分は思っている。


「Aさんは学校では明るく振る舞っているが裏では(家では)暗いらしい」

「Bさん表面上は皆に良い顔するけど、裏では結構悪いやつらしいよ」

だいたい人の裏表が表現として用いられるときは、表は「プラスな面」裏は「マイナスな面」である。


自分はこのように人を裏表で表現することに、物凄く抵抗がある。

なぜか。

人は裏表だけでは表現できないからだ。


最初の方に上げた例を出してみよう。

「Aさんは学校では明るく振る舞っているが裏では(家では)暗いらしい」

果たして学校での明るいAさんが表で、家での暗いAさんが裏であるのだろうか。

もしそうなのだとしたら、本当のAさんは表のAさんだということになる。
裏のAさんはAさんではないということになり得る。


ここで思うことがある。

裏のAさんもAさんではないのか。

Aさんのことを裏表で表現した人は、表のAさんしか知らないのだ。

しかも当のAさんは、おそらく家での自分を裏だと認識していない。

だって、家にいる家族からはAさんの裏がAさんの表だと認識してるから。

このように裏だと思っている一面は、特定の環境から見た裏であり、そしてある人たちにとっては表であるということを忘れてはならない。

だとしたら、裏表で人を表現するのは間違いなのではないかと感じる。


こういう持論があるからこそ、「あいつにはこのような裏がある」という言い方は好きではない。

裏ではない、その人を構成するための大事な1面だ。


そして忘れてはいけなのが、人には様々な一面を抱えているということ。

社会人としての自分。
旧友に対しての自分。
家族に対しての自分。
恋人に対しての自分。

このそれぞれの自分が同一であるという人はそうそういないだろう。

人は環境や人に適応し、それぞれの自分が作り上げられるのだ。


それぞれの自分がいるということは、SNSの普及によってより顕著に現れ始めた。

「裏アカ」という存在だ。

この言い方にも自分は違和感を抱くが、それに関しての持論は今回は分割させていただく。

裏アカでは、誰も現実では見たことがない存在が見えてくる。

しかし、裏アカに存在する実体も一人の人間を構成するための、ある一面だ。


話が少し長くなってしまったが、とにかく僕が最後に言いたいことは

「人に裏というものはないし、人は裏表だけで構成できるほど単純ではない」ということ。


今日はここまで!

またお会いしましょう。

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