なぜ生きることが苦しいのか?
注意書き
※この記事はなんの専門家でもない一般人が書いています。
※なるべく科学的に正確であるように心がけていますが間違いの可能性もあります。
我々は生物である
我々ヒトがホモ・サピエンスという学名がついた生物である、ということはたいていの日本人が了承していると思われる。
※ちなみに《Homo》はホモ・セクシャルという言葉でも使われるが、ホモ・サピエンスのHomoはラテン語由来で《人》を表し、ホモ・セクシャルのHomoは《同一の》という意味でギリシャ語に由来するんだそうだ。へー。科学用語でHomoは後者の意味で使われることが多い。
生物であるのでヒトもまた生物学的特性に従っている。
《苦しい》というのは感覚であるが、生物学的にいうと感覚は《生きるための認知システム》のひとつである。
生きるとは何かということについて、まだ一般的な答えが出ているわけではないが、おおまかにいうと
①《自己》と《自己以外》の区別があり
②《自己以外》から物質・エネルギーを受けとって《自己》を更新し
③《自己》を増やして存続させようとするシステム
②は脳細胞以外の体細胞が一定周期で入れ替わっているという知識があれば納得いただけると思うが、バクテリアなどは脳が無いので更新するのが基本形と考えて問題なさそうだ。
③も観測データにもとづく。②と③を成立させるには①の前提が必要である。しかし細胞共生説などを考えると①の定義はけっこう難しい。
定義について深掘りすると大変なので今回はとりあえず置いておこう。
(①についてはnoteで発表しているSF小説シリーズの3作目でテーマにする予定です。③についてはただ今制作中の2作目のテーマとなっております。)
生物は《自己保存》しようとする
ようするに、生物が生きるためには《自己保存》をする必要がある。生物学について学んでいるとやたらと《自己増殖》が根幹であるかのような話が多いが、私は《自己増殖》は《自己保存》の余力がある場合に成り立つものであり、《自己保存》のための《自己更新》には限界があるので、生物はしょうがなく《自己増殖》をするのだと理解している。だから生きるというシステムでいちばん重要なのは《自己保存》である。
生物といっても物質の集合体なのだが、マグマによって造成された岩は風雨にさらされて砂になることについて拒否らないのに、生物にはこれ以上は分割されたくないという《枠》がある。それなのに、その《枠》の内部の物質は常に入れ替わっている。我々が守っているものは何だろう?
まあ、とにかく深掘りはやめて、生物は《自己保存》の法則があるというところから話を進めよう。
自己保存のためには自分という枠が壊れないようにつねに注意する必要がある。ほっとくと岩が砂になる世界である。
そのために、我々は《自己》と《自己以外》の境界線について知っている。バクテリアだって当然それはわかっている。しかし細胞共生説を考えると、案外そのセンサーはいいかげんかもしれない。
なんにせよ、どこかの境界線で我々は《自分》というものが壊されないように守っている。そのためのセンサーとして《感覚》が存在している。《感覚》とはおおざっぱにいうと《自己以外(と自己)》をモニタリングして《自己》にとって不快なものを避け、《自己》にとって有益なもの(自己更新のための物質・エネルギー)に近づくためのシステムである。
苦しさは自己保存を脅かすものへのアラーム
だから『苦しい』という感覚は自己保存が脅かされているぞという自分自身にたいするメッセージである。いろいろ書きつらねてきたわりにはごく当たり前のことしか言ってない気がするが、古来よりこのテーマではいろんな方面でいろんなことが言われているので、基本を押さえておくのは大事であろう。
●物価が上がって苦しい
●他人とうまく接せれなくて苦しい
●喉が痛く熱も上がって苦しい
他人とうまく接せれないことがなぜ苦しいかというと、ホモ・サピエンスが社会を作ることで生き残ってきたことと関係している。他人とトラブルになりやすいよりは他人と仲良くできるほうがより多く子孫を残せたので、我々は全体としてそういう性質の生物になった。何にでも例外はあるものだが、完全に社会の外で1個体で生活できるホモ・サピエンスは私の知るかぎり存在しない。
逆に言うと『他人とうまく接せれない』という苦しみは『他人とうまくやっていくようになんとかしなさい』という意味の自分自身にたいするメッセージである。生物としての自分が『そうしないと《自己保存》がうまくいかないよ』と言っているのである。
社会性が高くて誰とでもうまくやっていける人を見ると、人づきあいがまったく苦になっていないように見えるかもしれないが、実際はそういう人は単に上記のメッセージにたいする対処が早くて上手で、苦しいという感覚を長引かせずに軽く済ませることができているだけである。
他に例に上げた感覚についても似たようなものだ。例の中では物価が上がる苦しさは対処が難しい。私は一人暮らし歴10年、主婦歴が20年くらいあるのでがんばって生活防衛するしかないだろう。なんにせよ《苦しさ》は自己保存のために生物が自分自身に送るメッセージであり、そのメッセージの本質は、
これまでの行動のままではヤバいから行動を変えなさい
というものである。これ以上の深い意味は何も無い。
そうは言っても現代の人間社会はいろいろと複雑なので、《苦しい》というメッセージを受けとっても何をどうすれば良いかわからない、ということは多々あるだろう。結局のところ、ここまでこの記事を読んだ人は上で書いたようなことはぜんぶ理解していて、この文章のこの部分だけに興味があるということかもしれない。そうだとすると大変もうしわけないが、私もこの複雑な現代社会で何をどうすれば良いのかということは、ほとんど何もわからない。
私自身、毎日やることが多すぎて疲れていたり、五十肩になって激痛だったり、PTAの人間関係がうまくできなかったり、親の世話が大変だったり、お金の工面に困っていたりと、苦しいことがたくさんある。
正直『そんなにたくさん《苦しい》からなんとかしなさいというメッセージをもらっても、対処しきれないよ…』という気持ちでいっぱいである。
私が思うには、たぶん、どの生物も同じように感じているのではないだろうか?
バクテリアにも《苦しさ》があるかどうかは難しいが、下記ウィキペディア内の《負の走性》という概念はヒトの苦しさと同等かもしれない。
生きているかぎり、生物は自己の感覚によって自己以外のものに近づいたり離れたり、何かの行動を起こしているわけで、《自己保存》の法則からすると身近な危険に対処することは《自己更新》よりも重要度が高いので、《楽しい》という感覚よりも《苦しい》という感覚のほうがより多く強い。
我々は《自己以外》から常に物質・エネルギーを取りこんで《自己更新》しないと《自己保存》できないというシステムであり、ほっておくと岩が砂になるこの世界で《自己保存》するのはとても大変なことである。生きているものは皆そんなすごいことを日々やっている。
おまけ
ヒトは進化の過程でより不安を感じやすいようになったらしい。サバンナでいろんな食料を探し歩き、大型肉食獣の危険も避けなければいけなかったので、大脳皮質に過去の経験記憶をたくさんためこんで「これは食べられる、これは危険」と判断できたほうが有利だったようである。
その記憶力の良さと、未来をシミュレーションできるという能力の獲得によってよけいな《苦しさ》も増えたのかもしれない。
過去と未来の《苦しさ》についてはそれがどれほど重要なメッセージかどうか、いったん考えてみたほうが良いかもしれない。
人類史における《不安》の増大についてのSF小説『All Lost Human』全文公開しています!(現在は有料です。)
タイトル画像:"Why is life so painful?" by Stable Diffusion Online