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『資本論』を自分なりに読みやすくリライトしていく試み2 -ものの価値は労働時間で測られる
資本論
第1部 資本の生産過程
第1篇 商品と貨幣
第1章 商品
第1節 商品をめぐる2つの価値-「使用価値」と「価値」2/3
前の記事:第1節 商品をめぐる2つの価値-「使用価値」と「価値」1/3

■労働の抽象化→「価値」
抽象的な人間の労働とはどのようなものでしょう。
(前述のとおり)生産物は商品となり交換される際に、使用価値が捨象され(捨て去られ)ます。
使用価値がなくなるとともに、そのものを作る労働の中に含まれていた、(糸を紡ぎテーブルを作り家を建てるなどの)感性的な部分もなくなります。これが労働力の抽象化です。
言ってみれば抽象的な人間の労働とはまぼろしのようなものです。これが価値――商品としての価値となります。
まとめますと、
使用価値があるものには商品として交換する価値があります。鉄や小麦などまったく使用価値の異なるものを交換する際に、共通した基準となるものが、抽象的な人間の労働です。
それによって、ものは商品として価値を持ちます。
■価値の大きさは労働時間ではかられる
このように、商品が交換されるときの価値は、使用価値とはまったく独立したものとして表れることを見てきました。
では、価値の大きさはどのようにはかるのでしょうか。
それは、その物品に含まれている労働の分量によってです。
そして労働の分量は、その継続期間(時間)によってはかられます。
とはいえ、
商品の価値が、そこに費やされた労働の時間によって決まるとしたら、労働者が怠け者で未熟であればあるほど、その生産には多くの時間がかかるため、その商品の価値は高くなる、と考える人もいるかもしれません。(それはおかしいのではないかと)
ところがそうはなりません。
商品の生産には、社会的に必要とされる以上の労働時間はかからない(かけられない)からです。
これはどういうことでしょうか。
■個人の労働→社会的な労働
この社会における無数の個人的労働力は、社会的平均労働力という均質な塊となってしまいます。
社会的平均労働力とは、通常の生産条件下で、その時点で普及している平均的な技術と強度で物品を生産するために必要な人間の労働力=労働時間です。
例えで説明しますと、
いまのイギリスにおいて、一定量の糸を織って布地を作るのに必要とされる時間は30分だとします。
かつては、手作りの織工たちは布地を作るのに1時間を要していました。
ところが蒸気織機が導入されたことで、布は1時間→30分で織れるようになり、必要な労働力は半分に減りました。
機械の導入により、1反の布地を織る時間が減ったことで、価値も半分に減りました。
しかしながら、手作りの織工は、以前と同じく1時間の個人的労働時間を必要としています。
にもかかわらず、
彼の1時間の労働の成果は、30分(半分)の社会的労働時間にしか相当しなくなったのです。1時間働いても30分の値しか稼げなくなったということです。
これが、個人的労働時間と社会的労働時間の関係です。
あらゆる物品の価値の大きさを規定するのは、その生産に社会的に必要な労働量、または労働時間です。
そして、商品の中に凝固した(抽象化された)労働時間が価値を表すことにより、
同じ量の労働が具現化されている商品、または同じ時間で生産できる商品は、同じ価値を持つようになります。
つづく
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