棚から botamochi。
明治•昭和時代の作家、または有名な俳人など、言わずとして世界に通用している「日本文学」について、私は日本人として当然のごとく誇りに思ってきた。しかしその誇りの質量に対して、それほど好きな分野でもなかった。
恐れながら、過去に日本の小説家で心底好きだったのは、三浦綾子氏…くらいかもしれない。海外ならばパウロ・コエーリョが大好きだった。しかしある時、太宰治氏の作品の中にも、好きな作品がいくつかあることに気がついた。
その理由は、そこに描かれているある「光」の存在であった。そして太宰氏が当時聖書を学んでおり、小説に書かれているその光の正体が神とキリストの愛であると理解した時、私は、ああ、やっぱり私はここに惹かれるのだな、と腑に落ちたものだった。
思えば日本人の個性の枠からいつも少しだけハミ出していた私は、いつからか、海外に住むことを夢見ていた。しかし、もともと体が弱かったこともあり、発作的に飛んでやる勇気もなくくすぶっていた。それがひょんなことから日本国内でアメリカ人と結婚し、私は日本人的「ちょっとヘン」な人を卒業し、無事「ヘン」組に昇格した。ヘンが普通になったことで私はそこに大きな安堵を覚えた。
そこから思いもよらずイギリスに住むことになってもう…15年。今、私はじわじわとイギリス文学にハマりはじめている。私はこのことが嬉しくてたまらないのである。これはひとえに、この年月の間にここの土地の文化や生活、人間たちへの理解が深まったからに他ならないと考えるのだが、とにかく今、私は思わぬ嬉しい副産物を受け取っているのだ。
このような経緯を振り返った時に、クリスチャンが決まって口にするフレーズがある。
「神の導き」
英語で言うなら "God's plan"。
私自身クリスチャンであり、しかもキリスト教文化のイギリスにいるのだから、これは当然そう告白すべきところであろう。
もしくは旦那のおかげ、というべきかも知れないが、正直、渡英後の私にとってはつらい思い出が多かったのでそうやすやすとはヤツの評判を上げてはやらない。まあ、実際そのヤツのお陰でイギリスに渡ってこられて、奨学金とバイトで家族を養ってくれ、その上何度もあのバカ高いビザの申請料金を払ってくれたのも、他ならぬあのスゴイヤツなのだが。
とにかく、あの時全ての家具を投げ売って海を渡りここに来て、今こうして大好きなキリスト教文化や音楽に囲まれて生活ができるこの素晴らしさ、そしてイギリス文学まで楽しめるようになったこと。そのことについて今無性になにか言いたい気がしているのだが、「神の導き」でも「神の恵み」でもなく、なぜかここは大和魂を奮い起こし、大声で言わせてもらおう。
「棚からぼたもち!!」
ああ、ぼた餅が食べたくなった。
神さま、ありがとう。