湯治場で、年を越す⑥【湯治の達人、現る】
<前回はこちら>
到着から2日目の夜、遂に鳴子にも寒波が訪れる。
しんしんと降り続ける雪、一晩で車が山盛りになってしまった。だが降雪作業はちょうど良い運動だ。
以前肘折温泉で真冬に連泊した際、車を数日間動かさずウォッシャー液が凍結。ワイパーが破損してしまったことがある。毎日少しずつ、リハビリがてら身体を動かした。
線維筋痛症患者の顕著な症状は「激痛」。そしてそれに伴う寝たきり状態だ。痛みから出不精になり、食欲も失せ短期間でガリガリになったりする。
<線維筋痛症の症状 ねこぜあきさんの記事より>
快復には運動療法は避けて通れない道。身体を温め、日光に浴びることも重要とされる。だがその気力すらも灰燼に帰すほど、この病の激痛は凄まじい。
「全身の骨が骨折しているよう」
「ガラスの破片が血管を流れている」
罹患者はその壮絶な痛みを各々形容する。
私も数週間単位の発作は度々起こり、入院も何度も経験している。だが症状が重い方の中には、年単位で寝たきりの方もいるようだ。まだ軽症なほうかも知れない。
多くのお客さんが入れ替わり訪れる年末。序盤は一泊で帰ってしまう方がほとんど、年の瀬が迫ると次第に連泊の湯治客が増えてきた。浴室や炊事場で挨拶を交わし、何気ない話題から話は始まる。
「どちらからですか?」
「こちらはよくいらっしゃるのですか?」
大体この流れからペラペラと。全国津々浦々から訪れる湯治客。
石巻からお越しのおじさん。年に3回こちらで湯治すること20年以上、恒常的に腰痛を抱えている。湯治をして三日目以降、ハッキリと効用が出始めるのだとか。
こちら「高東旅館」は、宮城県沿岸のからの湯治客をお見受けすることが多い。かつては武士階級が身を休めるために行っていた湯治という習慣。伊達政宗や豊臣秀吉も遠路はるばる温泉地に出向いていたことはよく知られている。
一般階級にまでその文化が広まったのは江戸時代以降。主に漁業や農業ななど、一次産業に従事する方が閑散期に英気を養うために行ってきた。
400本もの源泉を持ち、著名な温泉専門家から「東の横綱(※史実として一般的には草津温泉)」とも称される鳴子は、沿岸の湯治客が足を運ぶという文化が残っているのだろう。
到着して3日目、浴場でお会いしたSさん。
風説で耳にしたことがあった「湯治の達人」とも呼ばれる方だ。何とこの方湯治歴80年。幼少の頃から年中行事のように慣習としているそうだ(※地域だよりにも掲載が)。年末年始に2週間の滞在後、帰り際に翌年の予約を取って帰るという。
実はこのSさんは移籍組。
長年別の旅館で湯治をしていたそうだが、年々湯が細くなり効力が弱くなったことが要因で他を探したらしい。様々な湯治場を渡り歩き、ここが良いと辿り着いたのが「高東旅館」だったと語る。
一日4回必ず入浴するというSさん。私も5回入浴するため、毎日浴室で顔を合わせた。滞在期間もほぼ同じだった。ある日のこと。持病を抱えており、治療のためにこちらに来ていることをお伝えした。
84歳になるというこの方、かつては塩釜で養殖業をしており、その後船舶免許の教習所を立ち上げ現在は息子さんが継いでいるのだとか。
「ここの湯が一番効く」
そう豪語するSさんの上半身には、縦に横に縫合痕が残っている。震災後に大病を患い、人工肛門や臓器の摘出なども経験されたそう。一時は生老病死を勘案し、毎年続いていた湯治の習慣もその年ばかりは諦めたのだそうだ。
「人工肛門が外れた時は嬉しかったよ」
「闘病は辛いと思うけど、絶対に諦めちゃだめだよ」
「毎月受けていたCTの検査、2か月から3か月毎になって、今は年に一回に減ったんだ」
「希望を持っていれば、この年でも元気になるんだ」
紗がかかったように湯煙が立ち込める浴室。滔々とした語り口のSさんに、円光を纏った釈迦如来の姿を見た。日々薫陶を受け、改めてここに辿り着いた御縁に感謝。
私が滞在する部屋は1階、Sさんは2階の部屋に滞在する。何でも敢えて2階を指定するそうだ。理由は「足音がしなくて静かだから」とのこと。とても84歳には見えない軽い足取りで階段を颯爽と昇降する。
積雪がない時は、川渡温泉エリアを毎日ウォーキングするのが日課。さながら湯治の生字引の様だ。
26日から一緒になったMさんご夫婦も移籍組。
常宿がいくつかあり、塩原や須川高原に長期滞在していたのだとか。だが今年10月に偶々訪れた高東旅館。宿の清潔さと湯の良さに魅了され、翌月にもこちらに投宿。帰りの際に本旅の予約をしてから帰ったのだとか。
もうリタイヤしているという旦那さんと自営業の奥様。度々浴場や炊事場でお会いし、何かと世話を焼いてくれる。そのうち、一緒に食事に出るようになった。
令和3年12月29日
<次回はこちら>