湯治場で、年を越す⑧【大晦日の引っ越し】
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遂に迎えた大晦日。私には最後の最後、もう一つ仕事が残っていた。
ここまで1週間お世話になった高東旅館、予約が遅れたために大晦日と元旦の部屋を確保できなかった。この2日間だけ別の宿に移り、その後また高東旅館へと戻って行く。
長期滞在のためかなりの大荷物。まるで引越し作業だ。安穏とした正月を迎えたかったが、誰のせいでもなく直前に体調を崩した自分の責任。
・・・とは言え、かなり煩雑な作業を残してしまったものだ。
衣類や生活用品に始まり、冷蔵庫にある食料品まで引き上げる。しかも往還するため、作業は2度に分かれる。そんなことを勘案をし始めた頃、ご主人と女将さんのフォローアップは見事だった。
女将 「荷物置いていきな、預かっておくから」
「冷えるかも知れないから、羽織を持って行きなさい」
「風邪を引かないようにね。元気で戻って来て」
私が移動する「姥の湯」。旅籠と自炊棟があり、予約をしていた自炊棟は少々年季の入った木賃宿。何度か立ち寄ったことがあったが、なかなかの襤褸さだった(ボロ宿は好きだが、極寒となると、、)。
女将さんは到着初日に出してくれた、外套の様な厚手の羽織を持たせてくれた。
館主 「ギリギリまでここにいていいから」
「ゆっくりしていってください」
本来であれば11時のチェックアウト。そして姥の湯は15時のチェックインとなる。この4時間、かつてならば我先にと湯巡りをしたが、旅の主眼はそこにはない。大寒波となった大晦日、外で時間を潰すのも艱難辛苦。
「健康娯楽室」であれば、好きなだけ使っていいよと館主。
ずっと一緒だったM夫妻。またしてもその雅量に甘えされてもらう。この夫妻は年明け5日まで高東旅館に逗留する。
「冷蔵庫空いてるから、余っているものあれば置いていきな」
「部屋もスペースがあるから、要らないものあれば預かるよ」
美しい連係プレーに落涙寸前まで追い込まれた。
2日間を凌げるだけの荷物をまとめ、鞄一つに収めた。大量の衣類と食料、冷蔵庫にあった食品類はMさんに預かってもらうことに。
2時半が迫ったころ、帳場に行き館主に謝意を述べた。該博なご主人から、またしても湯治に関して薫陶を賜る。
「湯治という文化は、一つの宿がいくら頑張っても成立しない」
「お客さんも含めて、みんなで作り上げるものなんだ」
「派手に広告を売ったり、カラオケを設けたり、そんなことをしても文化としては根付かない」
滔々と語るご主人。私もまさにそれを身をもって実感していた。
この2年間の疫病蔓延により、高東旅館も相当な影響を受けたという。
そんな折、ご主人が考案したのが「Let‘s Go 湯治プラン」。通常料金で、朝夕ご飯と味噌汁をサービスするというもの(※期間限定、繁忙期等は対象外)。
旅館業の救済措置と銘打った国政のキャンペーンに賛同できず、一時客足が遠退いたと話すご主人。多勢は割引額の大きなハイグレードな旅館に流れ、この企画は一部の富裕層向けの旅館が潤う結果となったようだ(それは政府も認めている)。
ご主人考案のこのプランは功を奏し、客足は前年比から大幅に戻ったという。毎日運ばれるこの米は、ご主人自ら丹精込めて育て上げた一等米。
私はその田植えの瞬間にも偶然立ち会ったことがある。田植え機を操縦するご主人。機械での作業を終えた後も、数日間田圃に入り手作業をする姿を見ていた。
このプランの着想の起点は、ご主人の幼少期時代に遡ると語る。
家業としての湯治宿。かつて、湯治客の元に炊き立てのご飯を運ぶと随分と可愛がられたそうだ。御捻りの如く、羊羹や金平糖などをもらったという。
「温故知新」
その旗の元に始まったこのプラン。コンビニの弁当やレトルトご飯に頼りがちな連泊客には、これほど嬉しいサービスはない。私もその恩恵に預かった一人だが、湯治客の衷心を見事に捉えた企画だった。
そんな高東とも暫しお別れの時。時々ホワイトアウト状態になるなど、大晦日の天候は荒れていた。軽装で向かった鳴子温泉駅すぐの「姥の湯」へ。
到着するとまず炊事場チェック。高東が異常に清潔なだけに、ちょっとハードか。。決してここが特別不衛生な訳ではなく、湯治場とは大体こんなもの。自炊は諦め、コンビニに再び車を走らせ弁当類を買いに行く。
旅に出てからは食していなかったコンビニの弁当。何とも寂しき一人の年越しだ。食べたのはローソンのペペロンチーノ。
ん、でも、これ結構美味いぞ。
令和3年12月31日
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