春の東北湯治⑬【本州最北の温泉地 下風呂へ】
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三沢市のモール泉連湯を経て、いよいよ本州北端の温泉地下風呂へと向かう。風力発電機が林立する「六ヶ所村」を抜け、ホタテと菜の花の街「横浜町」を過ぎると桜並木の陵丘を下り、やがて太平洋が見えてきた。4月末、まだ桜は咲いていた。
東側沿岸の国道は、やはり被災の爪痕が残り手信号がぽつぽつと。そして、去年豪雨で流された小赤川橋に差し掛かった。ここはまだ仮復旧で相互通行は出来ず、誘導員の案内を受け対岸に渡った。まだ2段階工事が待っており、迂回路を通した後、本線の着工に入るようだ。
橋梁を超えて数分、とうとう下風呂温泉街へと到着。
「遠かった」、そして「長かった」。安堵と懐旧が交錯する。そして街の雰囲気がオーバーラップ。一つ変わっていたのは2年前に新設された「海峡の湯」。
元々がどんな建物だったのか正直思い出せないが、ここには下風呂で最も古い歴史を持つ「長谷旅館」があった。芥川賞作家である井上靖氏がこの温泉地を題材に「海峡」を執筆し、こちらの旅館にも投宿したことでファンから人気があったという。
到着していの一番に向かったのは旧共同浴場「新湯」と「大湯」。もうないのは分かっているが、鉄道ファンが廃線跡を追うように、私も温泉跡地へ足が向いた。
急坂を登ったドン突きにあった「新湯」。これは私が今までで唯一熱すぎて肩まで入れなかった湯だ。那須湯本の「鹿の湯」48度も浸かれたが、ここはレイヤーが違った。
入場する際に、番台のおばちゃんに「熱くて入れないよ」と制されたが、「大丈夫です」と意気揚々と挑んでいった。だが足の裏が焼けるように熱く必死の加水。20分程埋めたが入れるレベルではなく、皮膚に軽いやけどを負い新湯を後にした。
格闘中も新湯には誰も訪れず、「大湯」に移ると何名か入っていた。こちらは適温で、地元客に「朝の新湯は無理だよ」と言われた。
正確に訪問日は記録していないが、この旅の道中に同県の嶽温泉で「嶽キミ(とうもろこし)」を食している。街道沿いに露店が並んでいたので恐らく8月、気温も湯も一年で最も熱い時期での挑戦だったようだ。下風呂温泉は屈辱の記憶でもあった。
新湯があった場所はもぬけの殻になっており、砕石で埋戻されていた。
坂の途中にある「かどや旅館」も既に廃業していた。続いて「大湯」に移るが、そちらも新湯同様跡形もなく砕石戻し。記憶を呼び起こすように、虚空感を味わう。
チェックイン時刻、宿泊は「まるほん旅館」。こちらに2泊することにした。素泊まり可能(税別4千円)で、温泉ファンからも非常に評価が高い宿だ。外観は雰囲気があるが、増設しており海側の部屋などは驚くほど綺麗だ。
結構な部屋数があるが客は私ともう一人しかいなかった。故に、女将さんに色々と話を聞くことが出来た。こちらは看板ネコがいる宿としても知られていたが、今年の1月に女将さんの膝の上で息を引き取ったそう。21歳だったという。
そしてまたここでも切実な話を聞く。下風呂温泉も現在営業している宿は何れも跡取りがおらず、このままでは全ての宿が廃業の道を辿るという。
「私にやらせて下さい!」
と言いたいところだが、内情は想像以上に厳しいものだ。この地に湧くのは強力な硫黄泉。これまでも何件かの宿の館主から伺ったことはあるが、デジタル製品は硫黄に弱い。ブラウン管は強かったようだが、薄型テレビだと1年以内には壊れるそうだ。
むつ市でテレビを買おうとすると、電気屋も5年保証も付けたがらないという。そして現代の命綱とも言えるパソコンも容赦なく傷める。こちらまるほん旅館でも何度かPCがダウンしてしまい、女将さんも右往左往したそうだ。
宿にはWi-Fiも飛んでいて、数日間仕事をする分には困らなかったが、最寄りのスーパーやコンビニまで車で20分程。移住などの呼びかけをするようだが、なかなか現実は厳しいという。
下風呂には鉄道マニアには良く知られた「幻の駅」がある。かつてむつ市の大畑駅から大間までを結ぶ鉄道計画があり、実利用を想定したアーチ橋が一部残っている。
1943年、戦況の旗色が悪くなり突如鉄道計画は中止となったそうだ。もし計画通り鉄道が大間まで通っていたら、この街の造りも少し変わっていたのだろうか。
到着して初日、湯に浸かる前に何とも言えない寂寥感を覚えた。
令和4年4月28日
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