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「読点を変えると文章も変わる」難しさと面白さの実験

文章を書く上で「読点(、)をどのタイミングで使うか」って、結構切実な問題だと思っています。

・文学作品など、読点の使い方をもひっくるめた「文章全体の雰囲気」もまた、作品の一部として成立する文章
・完全に自分のために書く日記

以上ふたつを除外した「他者に届けるための文章」を書く上で。
要するに「noteにいつも書いている文章」における、読点の使い方です。

読点の少ない文章は、読む側に「まくし立てる」ような印象を与えるので、読みやすさを重視するなら適切なタイミングで使うべき……という意見を見かけたことがありまして。
私の文章は、普通に書いたままの状態だと読点が少ない方なので、読み返しながら足すことがよくあります。


試しに、以下は2024年2月11日の日記の一部です。
(冒頭で「日記は除外」と書いたものの、適切な例文が思いつかず…)

朝ごはん食べようと思ってジュンク堂の隣にあるスタバに行ったら、開店直後だったからなのかお客さんが誰もいなくて席選び放題でした。珍しいこともあるもんです。明治通り沿いの店舗はいつ行っても朝から混んでるけどこっちは何気に穴場ですよ。

マシンガントーク気味


この内容を「noteに公開する」こと前提で書き直すならどう書くか。

ジュンク堂の隣にあるスタバへ行くと、お客さんが誰もいなくて、席を選び放題でした。
開店直後とはいえ、かなり珍しいことです。
明治通り沿いの店舗は、いつ行っても朝から混んでいるのに。こっちは何気に穴場なのかも。

読点が増えたのに文字数は減った


言っている内容は同じですが、読点のつけ方に沿って、語彙も全体の構成も変わりました。

個人的には、もともとの文章を濾過(あるいは漂白)したような、多少のよそよそしさも感じます。
その「よそよそしさ」はおそらく「読みやすさ」と同義で、ついて回る以上バランスを考えるべきもの。
文章に「感情」を込めたい、という意欲を燃やした翌日に気づくのも難儀なものです。


スマホもパソコンも無い、原稿用紙に手書きだった時代の文豪たちってすごかったんだな……なんて思ったんですが、よくよく考えたら小学生ぐらいの頃に書いていた作文や日記も、条件は同じでした。
それに今だって、便箋に手書きで書く手紙なら、同じように一発書きですね。最近全然書いてないけども。

noteを通じて「文章の書き方」の奥深さを知るばかりです。
お読みいただき、ありがとうございました。
今日も良い日になりますように◎


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薫
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