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【読書ノート】『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』

読んだ本の気になる部分を書き留めていきます。
今回採り上げる本は、

『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』

著.為末 大 です。


✅本書を手に取った切っ掛け

音声コンテンツ「超相対性理論」で採り上げられていたため、気になって手に取りました。

身体性が伴ってこそ、
辿り着ける場所があること、
あらためてこの本を読んで気づきました。

✅目次

全体を俯瞰するため目次を書き留めておきます。

まえがき
序:熟達の道を歩むとは
第一段階「遊」:不規則さを身につける
第二段階「型」:無意識にできるようになる
第三段階「観」:部分、関係、構造がわかる
第四段階「心」:中心をつかみ自在になる
第五段階「空」:我を忘れる
あとがき

「熟達論」目次

5つの段階が流れを作っています。

自分の言葉で書き出してみると、

「遊」:初期衝動から
「型」:土台となる「型」を得て
「観」:「型」の上で「観る」ことで構造を把握し、
「心」:構造を把握することで、中心を押さえられ
「空」:最後は、自他の境目がなくなる

「遊」から「心」の流れは、非常に分かりやすいですし、
応用可能分野が広いように感じます。

また、最後に、

「学ぶ」という概念を

「空」という解放で

包み込む流れがとても美しいと感じます。


「学びとは?」

これが書かれている本です。

✅書き留めたところ① 遊・型・観・心・空

「熟達とは人間総体としての探求であり、技能と自分が影響しあい相互に高まること」
 これが本書での熟達の定義である。

「熟達論」p.24-25

 熟達を探求していくプロセスは一本道ではなく、段階に分かれていると考えている。
 私はずっと、矛盾する教えが両立することを疑問に思っていた。例えば「まず言われたことを言われたようにやり、基本を覚えることが大事である」という人もいれば「自分で考え自分に合ったものを選ぶことが大事である」という人もいる。また「量が大事だ」「質が大事だ」や、「考えろ」「考えるな、感じろ」というのもある。今ならばわかるが、これらは段階が違うだけなのだ。
・・・
 本書では熟達の探求プロセスを五段階に分けている。「遊」「型」「観」「心」「空」だ。「遊」から始まり、「空」に至るまで段階を踏んでいく。

「熟達論」p.26

「遊」が一番初めに来るところが、非常に興味深いです。

この熟達論の中では遊びを「主体的であり、面白さを伴い、不規則なものである」と定義したい。

「熟達論」p.46

と本書は「遊」を定義しています。

「面白いからやる」

という初期衝動がないと、続かない。

これは、あらゆることに共通する熟達への道のように感じます。


✅書き留めたところ② 量から部分・全体へ

 「型」を手に入れると、最も基本的な行為が無意識にできるようになり、別のことに注意を向けられるようになる。深く観察し、一つ一つを部分に分けて、互いの関係がわかるようになる。漠然としていた世界の解像度が上がり、型の段階ではわからなかった内部の構造がわかってくる。これが「観」の段階だ。

「熟達論」p.108

 「見る」とは「分ける」ことである。力を加える局面が見えたのなら、意識の上でそれ以外の局面から切り離されたことになる。
 このような細分化を起こすには、結局のところ量が必要となる。量が増えて閾値を超えると、漠然としたまとまりだったものが分かれて見えるようになる。先ほどのランニングの例でも、何度も繰り返していくことで行為は自動化され、徐々に解像度が上がっていく。見えなかった境目が見え、違いがわかるようになっていく。
・・・
 量の蓄積があり、そして部分、そして全体の理解という順番に展開する。
 量が蓄積されるとパターンを形成し、そのパターンを理解するので。この変化は蓄積された量に比例して徐々に起きるのではなく、突然起きる量が閾値を越えたとき、質が変化するからだ。

「熟達論」p.110

「型」の後に「観」が来る流れ、非常に納得しました。

スポーツだとまさに、
基礎的な技術があるので、顔を上げることが出来て、
フィールド上を見渡すことが出来る。

「観る」ことで、
分解され、
因果関係である構造を理解する端緒が出来る。

この流れを意識できると、
あらゆる領域で熟達が進みそうです。


✅書き留めたところ③ 身体を介した言葉

【身体を介した言葉】

 「もし」には多くの比喩表現が使われているが、そもそもすべての言葉は近似イメージを引き起こすものでしかない。本当の意味で「それそのものを指し示す」ことは不可能なのだ。
・・・
私は初めてのオリンピックの九台目のハードルで足をぶつけて転倒している。だが、いくら言葉で「シドニーオリンピックの四〇〇メートルハードルの予選の一レーンの九台目のハードル」と説明してもそれがどんなものかほとんどの人にはわからない。「あの九台目のハードル」と一言聞くだけで、自分の脚がハードルにぶつかり転倒して地面にうつ伏せた状態から周囲の選手が私を追い抜いていく風景まで、自動的に思い起こされる。
・・・
 言い換えれば体験を積み重ねていくことで、言葉は豊かに変化し、その人でしかわからない意味を含んでいく。私たちはくっきりした輪郭の誰にとっても同じ意味をもつ言葉をやりとりしているのではなく、近似のイメージを引き起こすきっかけをやりとりしているのに過ぎない。

「熟達論」p.178-179

 言葉は先人の感覚を保存するものでもある。型の伝承も言語を介してなされることが多い。昔は画像で保存するテクノロジーがなかったことも影響しているが、大きな理由の一つには映像は実現された姿しか残せないことがある。言葉は表現された姿だけではなく、どこに注意を向けながら行うかなど感覚の部分も含んでいる。言語は曖昧であるがゆえに、言葉が波紋のように広がるのだ。
 一旦体験した技能でも、うまく再現できなくなることがあるが、その時には、自分なりに鍵となる言葉で感覚を思い出すことができる。言葉は感覚に楔を打つようなものである。その時の言葉は正確な定義通り使われていなくても構わない。その言葉がきっかけとなり動きが生み出され連動するのであれば、どんなものでも良いのだ。

「熟達論」p.179-180

コテンラジオの「最澄と空海」編、密教の話しが思い浮かびました。

言葉がシンボルとして、体験を想起させること。

これは言葉以外にも、

音楽であったり、香りであったり、

様々なものがありますが、

五感から得られた特定の刺激が、特定の体験と強く結びつく。


逆に言えば、

普段、言葉を使い慣れているがゆえに、

言葉が体験と結びついていることは、

あまり意識していません。


この本では、個人の体験がメインとなっていますが、

組織においても、

体験を通じて、言葉の認識を統一すること

非常に重要だと考えます。


✅書き留めたところ④ 獲得と解放

 熟達の道は終わらないだろう。もう意味というものに頓着することはない。ただ面白い、ただやってみたい、という理由なき衝動がある。すべては遊びから始まった。熟達の道のりを経て、私たちはまた遊びに戻っていく。

「熟達論」p.210

 学ぶという行為は二つの見方をすることができる。
 一つは獲得という見方だ。人は無知で生まれてくる。知識を得て、経験をしていくことで、一つずつ学んでいくというものだ。
 もう一つは制限を取り払うという見方だ。人間は外界を内在化させる。その時、社会の「当たり前」を取り込んでしまう。学び続けることでその制限を取り払っていき最終的に解放されることを目指すというものだ。
 本書を読まれた方はお気付きだと思うが、「心」までは獲得で進み、最後の「空」で解放に向かっている。

「熟達論」p.214

獲得していくことは、
囚われることだと考えてしまいますが、

その先に、
解放があることが、
この本の素晴らしい部分です。

これは、身体性を伴うからこそたどり着ける場所であり、

密教等の宗教において、
身体活動を伴う修行を必要とすることも、

このことと関係しているのでしょう。


✅読後メモ 身体性を伴う趣味

学生時代、
レベルは低かったですが、
スポーツ経験があるため、
何となくではありますが、
この本に書かれていることが、
イメージできました。

もし、スポーツ経験が自分になかったとしたら、
この本の理解度は、
とても低いものになっていたのではないかと感じます。

普段、体を動かすことと言えば、
「散歩」
ぐらいですが、

「散歩」中
自身の手足の動きや
呼吸に意識を動かしていくことで、
雑念から離れられたり、

「散歩」中の風景と、
音声コンテンツが同期して、
同じ風景を見ると
特定の音声コンテンツが想起される、

といった身体感覚と意識は
密接に結びついていることは理解できます。

この身体感覚と意識を探求していくこと、
あらためて興味深い分野だと思いました。


身体性を伴う趣味を見つけて熟達を目指すこと、
実行に移していきたいと考え、
2024年度内の目標にします。

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さくらいまさひろ@組織コンサルタント
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