配慮、排除、たぶん異常

 障害者への合理的配慮、というものがある。法律にも決められていて、来年度からは義務化されることになっているらしい。既に行政では義務だったのだが、民間の事業者も努力から義務になる。

https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/pdf/gouriteki_hairyo2/print.pdf

 わたしもこの合理的配慮を受ける権利を持っている。うつ病と不安障害の診断が下りているので、精神障害者ということで、学校とか企業とかその他のところに合理的な配慮をしてくださいと言える。

 既に大学では配慮してもらっていて、何度か記事に書いた。「合理的」というのだから、何が合理的なのかいろんな人、主治医とか教授とか第三者となる心理士とか、が協議して、これならOKと判断したものだ。

 とはいえ、特に精神疾患の場合、どこまでが合理的配慮なのか分かりづらいことも多い気がする。例えば車椅子の方が配慮を求める場合、スロープやエレベーターを設置すること、出入り口や席の配置など目に見える形の配慮がなされることが多いだろう(もちろん、それでも理解されにくい、大変な思いをする、ということもあるはずだ)。しかしうつ病なら、倦怠感や抑うつ気分、自己否定、意欲の低下、不眠や過眠など、症状は人によって様々だし同じ人でも症状に波がある。その上、程度の差はあれど普通の人でも似たような症状は経験するだろう。だからどこまでが病気の症状で、どこまでが合理的な配慮なのか分かりにくい。

 うつ病と不安障害の両方があるので、本当はメールのやり取りも誰かにお願いしたいと思った。メールの送受信にはエネルギーがいるし、不安発作が起こるのはほぼ確実にだからだ。完全に任せる訳ではないにしろ、わたしの状況を知っている人が適宜間に入ってくれたらいいなと思い、それをお願いした。しかし、その作業を請け負える人がいない、メールくらいは自分で頑張れ、といったような理由でそれは受け入れられなかった。もちろん、いち学生のためにそんな手間はかけられないというのは理解できたから、それは了承した。

 けれどやっぱり、欠席連絡は全く出来ずにいて、ということは休んだ分の資料は貰えずに過ごしている。今どきネット上に資料を上げる先生も多いけれど、なぜか紙に固執する人もいるのだ。資料を下さいとメールして教授室まで取りに行く。甘えなのかもしれないけれど、不安障害の人間がそこまで頑張らないといけないのかと悲しくもなる。ただ資料をネット上にアップロードしさえすればいいだけなのに。他にも風邪や何かで欠席した学生にとっても良いことのはずだ。

 ネット環境、といえば、コロナ禍ではリモート授業が主だった。途中でハイブリッドという講義室に来てもいいしリモートで授業を受けてもいいという形式になったのだが、最終的にはハイブリッドもなくなり完全に対面授業に戻った。要するにコロナ前と同じになったのだ。
 不安障害の症状なのか、外に出るのが恐ろしく感じられることがある。特に講義室に向かうとなると、ある程度顔見知りの人と狭い部屋に閉じ込められることになる。それを想像するだけで辛くなり、文字通り布団を頭から被って震えているときがある。これだって怠けだと言われるのかもしれないけれど、症状がない時は出かけられるし、そもそも発症以前は問題なく登校していた。なので、割合はともかく、病気の症状の一部なのではないかと思う。そんな時でも、リモート授業なら受けることが出来る。PCを開いて布団を頭から被ればいいのだ。ノートは取りにくいけれども、少なくとも話は聞ける。けれど今はそれが出来ないから、せっかくの講義の内容は全く聞けないままだ。

 いちおう、ハイブリッド授業を申請するという選択肢もあった。けれど自分ひとりのためにと思うとプレッシャーが大きいし、なんとなく了承されないんじゃないかという予感があった。なぜなら対面授業に移る前に学生アンケートがあって、その結果では学生はほとんどハイブリッド(またはリモート)がいいと答えていたからだ。それなのにハイブリッドにすらならずに対面一択になった。先生方の意向なのだろう。

 障害があっても学ぶ権利はある。それを考えると、絶対コロナ禍の前と同じ状況に戻したいというのはおかしな話ではないだろうか。オンラインで受けられさえすれば講義に参加できるのに。そしてそのための設備は既に揃っていることはコロナ禍で証明済だ。

 結局、合理的配慮といったって、面倒とか固定観念がある人には受け入れられるものではないのだろう。「何で登校出来ないのか?おかしい」といったところだろうか。「病気なら治してから勉強しろよ」と。うつ病は完治なんてないのに。

 そんな状況で多様性だとか言われても、面白い冗談ですねとしか返せない。もちろん、うつ病になったことがない人からしたら、怠け以外で講義に出ない理由なんて想像もつかないのだろう。わたし自身高校生の頃まではそうだった。だから仕方ないと思ってしまうこともあるけれど、じゃあ多様性なんて口にしないでくださいと思う。結局、理解できない人間は異常だと排除しているのだから。


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