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No.2 どんなことがトラウマになるのか


 No.1で自身が幼少期の体験が症状となり、複雑性PTSDのような状態となっているだろうと考察した。今度は、自分のどんな体験がトラウマだったのかを知るために、一般的に、特に幼少期においてどのような体験がトラウマになるのかを調べたいと思う。前回と同様、調べたことが増え次第追記します。
前回→https://note.com/tohiro123dipho/n/nd4a0106a4ca9

逆境的小児期体験(ACE)はどのような体験か

 前回も取り上げたACEに関することから始めたいと思う。この研究は患者に質問を行うものであるため、トラウマの定義が比較的分かりやすいと思う。
 質問の内容そのものは前回に譲るとして、大まかにまとめると、虐待(身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクト)と不適切な養育環境(家族に精神疾患患者がいたか・収監された人がいたかなど)が尋ねられている。これらがトラウマにあたる、というのは納得しやすい。

「小児期トラウマがもたらす病」によると、以下のような条件に当てはまると、子どもにとってストレスとして捉えられるとのことだ。

①つねに警戒している=いつ怖いことが起こるか分からない
②家族内に公然の秘密がある⇒自分を責めやすくなる
③親がストレスに動揺する⇒子どももその反応を察知する

 より詳しくは本に譲るが、一見軽いように見える、ちょっとしたからかいも、家族や友達の中で不意に起こるものであれば①に当てはまり、からかいを受けた本人は常に警戒することになってしまい大きなストレスになる、ということになる。
 まとめると「慢性的なストレスに晒されている」という状態によって、ACEとなり成人後の疾患に繋がるらしい。
 わたしの家も父親の機嫌がすべてを支配しており、いつ怒鳴られるかと怯える毎日を過ごしていた。父親のため息ひとつだけでも怖かった。怒鳴られた翌日は、まだ機嫌が悪いのだろうかと怯えながらベッドを出た。そして、父親が間違っていると指摘することは我が家ではタブーだった。間違いが明らかなものをそうでないと否定すると、「自分が悪かったのだ」とどうにか納得しようとする。父親のミスでわたしが怪我をしたとき、父親はなぜか激怒していた。わたしはそれを見て、わたしが怪我をしてしまい、泣きやまないから怒っているのだと思った。父親が悪いと言い返す人は誰もいなかった。

三つの「F」

 恐ろしい目にあったとき、人は「闘争(Fight)」「逃走(flight)」「凍結(Freeze)」という3つのどれかの反応を示す。最初の2つは一時的にはストレスへの対処として役に立つものだ。野生動物が襲ってきたとき、戦うか逃げるか即座に判断して身を守る。そして危険が去って安心する。それで終わりならいいのだけれど、トラウマとなる出来事は、先ほども書いた通りいつ起こるか分からなかったり、いつ終わるか分からなければ、この反応がいつまでも続くことになる。このふたつの働きは交感神経系によるものだ。

 3つ目の「凍結(Freeze)」は最初のどちらの行動もとることが出来ないときに起こる。死んだふりとでもいうべきか、とにかく意識をそらしてその場をやり過ごすことになる。当然、恐ろしい出来事は目の前で起こっていて、そして自分はそれに対して何もすることが出来ない。このような状況は子どもで起こりやすいと考えられる。例えば虐待を受けていても、親と戦うには体格も違いすぎるし、逃げようとしても生きていく場所がない。だから凍ってやり過ごす。
 そうして自分は何も出来ない人間なんだ、どうせまたひどい目に遭うんだと悲観的になる。これは複雑性PTSDなどの診断基準にもあった、自己否定や自己破壊の衝動と重なるのだろう。
 この「Freeze」という反応はマウスでも起こる。実際に見たことがあるが、見てすぐに怯えていると分かるくらいその場から動かずに震えている。
 そしてわたしも同じような状況になったことがある。成人して家を出た後、帰省したときに今度こそは父親に言い返そう、もう大人になったのだから、と意気込んでいた。そして昔と同じように父親の癇癪が始まった。何か言わなきゃ、そう決めただろう、と自分に言い聞かせても、声を出すことはおろかその場から動くことも出来なかった。小学生になる前の自分と全く同じだった。大人になったはずなのに、心はまだ幼いままなのかと絶望した。自分はちっとも成長していない、不完全な人間なのだと思った。
 Freezeは交感神経系と副交感神経系が同時に作用し、アクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態になっていると説明される。だから内心では怒りや反抗心を抱きながらも動けないのかもしれない。そして車でそうしたら壊れてしまうのと同じように、人間の心身にも悪影響を及ぼすのだ。

ひとりぼっちだった

 トラウマになりそうな怖い目に遭った時に、味方がいたかどうかは大きな違いを生む。「ある体験がトラウマになったということは、そのときひとりぼっちだった」ということ、だそうだ。
 ACEの研究でも、同じような経験をしているにも関わらず成人後にも健康な人は、信頼できる大人が周りにいた人が多いそうだ。
 逆に、誰も助けてくれなかった、と感じたら、その恐ろしい体験の上に「わたしは誰にも助けてもらえない、大事ではない、取るに足らない存在なんだ」と思ってしまう。より深い心の傷となって、より自己否定に走るようになり、世界への信頼感が失われていく。
 わたしの場合、それは母親が元だった。父親に怒鳴られているときに庇ってもらった記憶は一度もない。保育園で嫌なことがあっても、母親が仕事をしていて大変だということは分かっていたから、そのことを口にはしなかった。
 物心ついてから、母親に甘えたという記憶がない。この人は信頼に足る人ではないと思っていたのかもしれない。たぶん母親は、わたしが堪えた涙にも、沈んだ表情にも気が付かなかったのだろう。わたしが言う「大丈夫」という言葉だけを信じたのだろう。
 小学生になってから、父親と一緒に居るのが嫌だと言ったことがある。しかし「お母さんだって我慢してるでしょ。仕事も大変なんだから」というような意味のことを言われて黙ってしまった。それはたしかに事実だったからだ。だからもう、同じことは言わないと心に決めた。そしてその頃から死にたいと思うようになった。

まとめ

 トラウマ、というと戦争や性的被害のような分かりやすい「恐ろしい体験」をイメージしやすい。もちろんそれらがトラウマになる可能性は非常に高いけれど、それはただ単に体験の恐ろしさだけではなく、その予測不可能性、味方がいたかどうか、繰り返されるかどうか、どのように反応したか、など様々な要因が重なってトラウマとなるのだと分かった。
 調べていく中で、ああこれも体験した、これも同じだ、と思うと一周回っておかしくなってしまう。不謹慎かもしれないけれど、ストレートフラッシュが簡単に出来上がるように見えるのだ。それは恐ろしい体験というものと、トラウマになる要因が同時に起こりやすいということを意味しているのかもしれない。
 前回に引き続き、幼少期の体験がトラウマとなっているらしい、ということを再確認することが出来たと思う。

参考文献

 パンローリング社 ドナ・ジャクソン・ナカザワ著 「小児期トラウマがもたらす病」
 アスク・ヒューマン・ケア 白川美也子著 「赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケア」

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