単振動、ただし摩擦はあるものとする
楽しいこと、わくわくすること、感動すること、そんなプラスの感情になったとき、僕の心は動揺する。緊張した時のようにお腹が痛くなって、そわそわして、そしてだんだん苦しくなる。
僕の心はそれを不安や恐怖だと勘違いしたのか、昔あった嫌なことや将来の不安を次々と引っ張り出してきてはそのへんに散らかしてみせる。僕はそれを一つずつ手にとって、あの時みたいに怯えて、そして今は違うんだって言い聞かせる。未来は大丈夫なんだって言い聞かせる。
少ししてわくわくや楽しみは戻ってきて、そしてまた不安と焦燥にかられて、それの繰り返しだ。振り子みたいにゆらゆら揺れる僕の感情は、無駄なエネルギーを生じていく。
そうして溢れたエネルギーは何かにぶつかって擦り切れて、どこかへ散らばっていく。僕の心は止まる。何も感じず、楽しみも不安もなくなる。僕の心の向きは、鉛直方向下向き、速度は零、加速度も零。
もう一度動かすためには、また何かエネルギーが必要だ。正の方向でも負の方向でも良い。例えば映画を見る。たまに振り切れすぎて、危うく糸が切れそうになる。例えば自分で自分を傷つける。痛みにやっと心が動いて涙が溢れる。そしてすこし安心する。
けれどまた、ゆっくりとエネルギーは散逸していく。
もう何も感じないままで良いだろうか。馬鹿みたいにゆらゆら揺れているのに疲れた。にんげんのふりをするのに疲れた。もう遠巻きにされてもいいや、僕きみの思ってるようなひとじゃないんだよってひとりひとりに説明してまわろうかな。いや、面倒くさいからみんなの前で喉を掻き切って、僕はおかしいんだって教えてあげたらいいかな。
もうちょっと普通になりたかった。普通なんてないよと思うかもしれないけれど、やっぱりあるでしょう、生きていて感じるでしょう、「普通」でいられる範囲というもの。僕はその範囲にいるために他の人よりたくさんのエネルギーを使っているのです。正確には、たぶん違う次元に僕というこころを投影して、あたかも普通かのように見せているだけなのです。きみの見ている僕はただのホログラム、幻、簡易化された平面。ああそうだとしたら、「ほんとうのぼく」はみんなに見えないところにいるのでしょうか?
でもやっぱり、にんげんのふりをするのをもうやめたい。誰にも見えなくていいから、ひとりぼっちでいいから。