わたしは全部間違っている
外の物音が気になる。アパートの廊下を人が歩いていると、何もしていないはずなのに怖い。無意識に、今歩いている人はわたしに文句を言いにきたのでは、と思う。うるさいとか、ゴミ出し間違えたとか、他にも何か言いたいことがあるのかもしれない。人が通るたびにそんなことを思う。もっとぼんやりと、ただ怖いなと思っていることもある。
自分は周りに怒られたり邪険にされる理由に溢れた人間だと思っている。思っていなければ、いちいち人を怖がる必要はない。頭では、そんなに変なことをしているわけではないと考えられる。でも心では、わたしはいつも間違えていて、許されていなくて、いなくなった方がいいと思っている。
別に生まれた時からそう思う性質の人間だったわけではない、と思う。これは知識からそう思っているだけなのだけれど。親の態度を見て、自分は間違っていると強く思い込んだように感じる。
父親はわたしの行動一つ一つに何かしら文句を言っていた。例えば一緒に買い物に行く時、父親の後ろを歩けはどこに行ったかわからんと怒られ、前を歩けば歩くのが遅いとか邪魔だとか怒られた。わたしは何をしても、父親からしたらすべて間違いだった。何かわからないことがあるなら聞けと怒鳴られ、質問したら自分で考えろとか声が小さいと怒鳴られた。わたしは全部間違っていた。
そうではないと教えてくれる人も一人もいなかった。母親はそうやって怒られるわたしを見ていたはずなのに、フォローの一つもなかった。だからわたしは、母親から見ても全部間違っていたのだ。周りの大人、親戚とか、先生とかもそうだった。全部わたしが間違っていて、全部わたしがおかしい。
だからわたしの存在は間違っているのだ。ここにいることが間違い。この世にいるのが間違い。生きているのが間違い。だから見知らぬ人がわたしを排除しようとしても、知り合いがわたしを嫌悪しても、彼らが正しくて、わたしが間違っている。わたしは許されていない。行動も存在も。
頭ではそうではないというのは分かっている。わたしにも人権は適用されるはずだ。わたしも子どもの時は庇護されるべきだったはずだ。でも現実はそうでなかったので、わたしが間違っている、その世界観だけは正しいように思える。
時には、自分の権利を主張したり、やりたいことをやろうと思える。けれどだんだん、お前は間違っているという声が聞こえてくる。少し行動を起こして、しばらくは人と関われていても、ふとした時にそれを思い出す。そして、それまでの行動が全部間違いだったことに気がついて、関わった人全てに嫌われていることを思い出す。嫌われていないという根拠がない。間違っていなかったという根拠もない。
わたしって全部間違っていた。両親にそのように教えられた。そう思わない、ちゃんとした人間になって、自分の人生を生きたいと思う。そのために少し努力する。でもやっぱり全部間違いだという気持ちになる。ということは、わたしは今すぐ死ぬことだけが正しい。でも死にきれない。
少しは怒っていいのだろうか。わたしは本当は間違っていなかったはずだと言いたい。でも言ったところで何になるのか。誰にそれを言えばいいのか。聞いてくれる人なんていない、いなかった、やっぱりわたしが間違っているのかもしれない。