東京大学2012年国語第1問 『意識は実在しない』河野哲也
自然環境に関する哲学的論考である。設問もどれもオーソドックスであり、東大国語第1問の標準が示されているといっても過言ではないだろう。
多くの問題集やウェブサイトにおいてこの問題の解説・解答が提示されていることからもそのことがみてとれる。
留意すべきと思われるのは、設問(一)と(二)の内容説明問題に、あまり例のない条件が付されていること、設問(三)の理由説明問題に対する解答がともすれば同義反復におちいりやすいことである。
(一)「物心二元論」(傍線部ア)とあるのはどういうことか、本文の趣旨に従って説明せよ。
設問に「本文の趣旨に従って」という条件が付されていることに着目すべきである。これは設問(五)に付記されている「本文全体の論旨を踏まえた上で」よりも、指示として重いものと考えられる。したがって、「物心二元論」という概念が本文中にどのように位置づけられ、どのような主張を進めるために活用されているのかという観点から解答する必要がある。
まず、「物心」の「物」は、第6段落で述べられる「原子論的な還元主義」の対象となる物のことである。「自然はすべて微小な粒子とそれに外から課される自然法則からできており、それら原子と法則だけが自然の真の姿である」とある通り、自然のなかの唯一の実在である「自然法則と微粒子で成り立つ世界」のことである。
次に「心」の方は、下線部の次の文中の「身体器官によって捉えられる知覚」のことである。これに続いて「知覚の世界は、主観の世界である」とされている。
ここで、「物」と「心」の関係が問題となる。「二元論」というからには、両者が異質なもの、峻別すべきものとするのが通常であり、解答に含むべきことと思われる。実際、第9段落には「物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質なものとみなされる」とある。
しかし、これだけでは、通常の物心二元論の説明にすぎず、指定にあるような「本文の趣旨に従って」の解答として十分とは思われない。
まず、第7段落に「自然に本来、実在しているのは、色も味も臭いもない原子以下の微粒子だけである」とあり、第8段落に「物理的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である」とあるように、本来、自然や物理学的世界は「無色」「無味」「無臭」で「無情」であるという性質を持っている。
にもかかわらず、「知覚において光が瞬間的に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりする」のは、「主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ」としている。第10段落にも「感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられる」とあり、「物」に対するすべての知覚は主観による作用であることが繰り返されている。
以上から、「実在の微粒子と自然法則からなる客観的な物理学的世界と、それに感性的な性格を与え得る主観的な知覚世界は、完全に異質だということ。」(63字)という解答例ができる。
(二)「自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなった」(傍線部イ)とあるが、なぜそのような事態になるといえるのか、説明せよ。
前問に続いて、いわくつきの設問となっている。通常の理由説明問題は「とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ」とあるのに、「~、なぜそのような事態になるといえるのか、~」と異例の文言が付けられている。
傍線部イの直前に「いわば」とあることから、極端なたとえだということがわかる。なにも詩人までもが近代科学の自然観に縛られる必要はない。
傍線部のような事態になる前提は、その前に書かれた「(そこでは、)感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる」ことであり、「そこでは」の「そこ」とは「二元論的な認識論」である。
上記の「感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられる」を詳しく述べたのが、第7段落の「自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある」である。
傍線部の言葉に即し、また「物心二元論」という前提を明記して、解答案をつくると、「自然における美は、本来の内在的性質ではなく、自然を美しいと感受し認識する人間の精神に由来するというのが物心二元論の帰結だから。」(63字)となる。
(三)「自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる」(傍線部ウ)とあるが、なぜそういえるのか、説明せよ。
傍線部ウの「比較できる」は、文字どおり「比べられる」というより、類比できる、似ている、という意味である。
傍線部の主語に当たるのが「近代科学の自然に対する知的・実践的態度(は)」なので、このことと「自然をかみ砕いて栄養として摂取すること」との共通点を答えればよい。
細かいことだが、解答を締めくくる述語の表現に注意する必要がある。「なぜ似ているといえるのか」という設問なので、解答は「AとBは~という点で似ているから」または「Aは~という点でBに似ているから」ではなく、たとえば「AとBは~という共通点を持つから」または「AもBも〜だから」などとしなければならない。
問題文には「自然をかみ砕いて栄養として摂取すること」の性質や特徴は書かれていない。したがって、「近代科学の自然に対する知的・実践的態度」について書かれていることのうち、「自然をかみ砕いて栄養として摂取すること」と共通する事柄を抜き出す必要がある。
それは、第11段落の「場所と歴史としての特殊性を奪われる」ことと、「自然を分解して利用する」ことである。このうち「場所と歴史としての特殊性」については、第19段落に「個性、歴史性、場所性」としてまとめられている。
以上のことから、「近代科学の自然に対する態度も、食物を咀嚼して栄養を摂取する行為も、対象物の個性、歴史性、場所性を無視し、分解して利用することだから。」(65字)という解答例ができる。
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