東京大学2008年国語第4問 『思想する「からだ」』竹内敏晴
東大現代文には、芸術をテーマとする問題文が多いが、そのなかで演技に関するものはきわめて珍しいといえる。
たとえば高校の演劇部に所属していた受験生にとっては有利な出題だったかもしれないが、そうでない生徒にとっても興味深い問題文だったのではないだろうか。
そういう意味で、東大入試に限らず、現代文という科目は、問題文の内容そのものに多くの示唆が含まれており、学ぶ楽しさ、知る喜びを教えてくれるといえる。
(一)「『ウレシソウ』に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
第1段落に、「二流の役者がセリフの取り組むと」「そのセリフを吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、それに浸ろうと努力する」とある。
さらに、「もっといいかげんな演技者なら、なんでも『嬉しい』って時は、こんなふうな明るさの口調で、こんなふうにはずんで言うもんだ、というパターンを想定して、やたらと声を張り上げてみせる」という。
ところが、本来は、ここでいう「嬉しい」は、「主人公が自分の状態を表現するために探し求めて、取りあえず選び出して来たことば」であるため、「その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置く」ことが必要なのである。
傍線部アは、二流以下のいい加減な演技者のあり方であり、かつ「ウレシソウ」というのは感情表現の一例に過ぎないと考え、一般化すれば、「未熟な役者は、セリフが選び出されるまでの身体的過程や言葉の内実に基づかず、セリフに伴う一般的な類型を想定して安易に表現するということ。」(67字)という解答例ができる。
(二)「賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
傍線部イの「讃嘆と皮肉」とは、いうまでもなく「「役者はすばらしい」「毎晩同じ時刻に涙を流すとは奇蹟だ」という劇中の年寄りのセリフに対するものである。これが「虚実」であるといい、「知れたものではない」というが、「若い頃はナルホドと思ったものだが」とあるので、疑わしいと思っていることは確かである。
また、虚実が「重なりあっている」のは、虚実そのものだけでなく、「この映画のセリフを書いている人」「これをしゃべっている役柄」および「役者」の、いずれも「一筋縄ではいかぬ連中」の3人についてでもある。
以上から、「毎晩定時に涙を流す役者を過剰に讃えるセリフは、実際はそれを書いた脚本家と、それを言う登場人物と俳優それぞれの皮肉かもしれないということ。」(68字)という解答例ができる。
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