㊳ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第6節「大日本映画党 演劇俳優陣 新劇戦前編」
文芸協会・島村抱月と坪内逍遥
1906年、英独留学から帰国し早稲田大学教授となった島村抱月は、日本のこれまでの演劇や芸能などの改良を目指し、早稲田の恩師で小説家の坪内逍遥とともに大隈重信を会頭に文芸協会を設立、演劇活動として歌舞伎座で坪内逍遥訳『ヴェニスの商人』、坪内作『桐一葉』等を上演し、ここから日本の新劇の歴史は始まりました。
1909年、坪内逍遥が指導に乗り出し、演劇研究所を創設して俳優養成にあたり、第一期生に松井須磨子、第二期生に澤田正二郎などを輩出、1911年、イプセン『人形の家』で主役のノラを演じた松井は大評判を博しました。
しかし、松井と妻子ある島村が恋愛関係となったこともあり、坪内との関係が悪化、1913年、文芸協会は解散します。
芸術座・島村抱月と松井須磨子
その年、島村と松井は芸術座を設立し、文芸部に水谷竹紫、俳優として、後に新国劇を立ち上げる澤田正二郎、倉橋仙太郎らが参加しました。
帝国劇場で公演した、トルストイ原作島村抱月脚色『復活』が多くの観客を集め大ヒット。主演の松井が歌う劇中歌、島村抱月作詞中山晋平作曲『カチューシャの唄』もレコード化されて大ヒットを飛ばし、一躍、時の人となった松井を擁し、全国巡業を行い、新劇活動を広めます。
1915年、神楽坂に小劇場「芸術倶楽部」を作り、芸術的演劇研究にも取り組み、年末にはロシア、ウラジオストクのプーシキン劇場でロシアの劇団と合同公演を実施すると話題を呼び、そこで歌唱した吉井勇作詞中山新平作曲『ゴンドラの唄』も後日大ヒットしました。
1918年、経営の安定を目指し、松竹と提携しますが、スペイン風邪に罹患した島村が死去、2か月後の1919年1月、松井も後追い自殺し、芸術座は解散に至ります。
自由劇場・小山内薫と二世市川左團次
東京帝国大学文学科に在学中、伊井蓉峰一座の座付き作家として舞台にかかわった小山内薫は、卒業後、同人誌『新思潮』を発行し、西洋の演劇評論や戯曲を紹介しました。
1909年、リアリズム演劇の確立を目指した小山内薫は、欧米視察から帰って来た二世市川左團次(1906年襲名)とともに、ヨーロッパの自由劇場運動をモデルに、劇場や専属俳優を持たない形の会員制組織、自由劇場を設立、11月有楽座にて、左團次一座の若手歌舞伎俳優の市川團子(後の二世市川猿之助)らで、イプセン原作森鴎外訳『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演します。
自由劇場は、1914年までに、翻訳劇を中心に、森鴎外、吉井勇、秋田雨雀等の戯曲など、8回の公演を行い、5年間の中断の後、1919年の公演で終わりを告げました。
築地小劇場・小山内薫と土方与志
1920年、松竹の映画製作参入に際して俳優の養成を目的に設立した松竹キネマ俳優学校の校長を務めた小山内薫は、半年後、松竹キネマ研究所を設立して映画『路上の霊魂』村田実監督、『山暮るゝ』牛原虚彦監督などを製作公開、映画界に革新をもたらし、伊藤大輔、鈴木伝明などを育てました。
しかし、興行的に失敗し、松竹を離れた小山内は、1923年、大阪の化粧品会社中山太陽堂(現・クラブコスメティクス)の顧問としてプラトン社に関係し、大震災後には大阪に居を構え、直木三十五や川口松太郎などに影響を与えます。
小山内の親友山田耕筰の紹介で小山内の弟子になった子爵、土方与志は、演劇研究のドイツ留学から帰国後、震災復興に合わせて小山内薫に劇場を建設することを提案、多額の私財を投入し、1924年早々から劇場建設と劇団の育成に着手、6月13日、二人と和田精(イラストレータ和田誠の父)、浅利鶴雄(劇団四季浅利慶太の父)、汐見洋(俳優)、友田恭助(俳優)の六人で新劇の常設劇場、築地小劇場を創設しました。
翌日、第1回公演を行い、こけら落とし作品は、土方の演出によるラインハルト・ゲーリングの表現派戯曲『海戦』でした。
築地小劇場の俳優としては、汐見、友田、青山杉作他に第一期研究生として、戦後の日本演劇界を担っていった千田是也、山本安英、田村秋子、広島の原爆で斃れた丸山定夫などが参加し、その後も研究生は増えて行き、滝沢修、薄田研二、東山千栄子、杉村春子、村瀬幸子、細川知歌子(ちか子)など多くの人材を育成、新劇運動の拠点として、また、前衛的な作品を舞台化することで演劇の実験室としての役割を果たしました。
1926年には日本プロレタリア芸術連盟に加盟の、佐野碩と村山知義、千田是也などが参加する前衛座によるプロレタリア演劇の第1回公演も上演されました。
新築地劇団・築地座・新協劇団
1928年、小山内薫が急逝すると、土方与志は築地小劇場附属劇団から排斥され、1929年、丸山定夫、山本安英、薄田研二、細川ちか子などの支持者と共に退団、新築地劇団を創設し、新たに入団した沢村貞子など研究生も加えて築地小劇場で第1回公演を行います。
一方、土方退団後の附属劇団は1930年に解散、劇団新東京を結成するも、1932年に解散し、友田恭助、田村秋子は築地座を創設し、杉村春子もそこに参加しました。
新築地劇団は、1931年、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟し、1928年に佐々木孝丸、村山知義、佐野碩などが結成した劇団、東京左翼劇場と連帯してプロレタリア演劇を演じて行きます。
1934年、プロットの代表として土方与志と佐野碩はソ連を訪問、ソ連作家同盟第1回大会で日本の状況を報告しました。それが日本の当局に伝わり、二人はそのままソ連に亡命しました。当局の弾圧でプロットも解体、その際に村山知義が行った提言に賛同する人々が新築地劇団から分かれて新協劇団を結成しました。
新協劇団には、村山知義、秋田雨雀、三島雅夫、細川ちか子、原泉子(泉)、信欣三、小沢栄(栄太郎)、滝沢修、宇野重吉、小杉義男らが参加し、1936年以降には下條正巳、北林谷栄、松村達雄、山本安英などが入団します。
かたや、新築地劇団は、薄田研二、青山杉作、この年1934年に新たに参加した千田是也、1931年に入団した東野英次郎、後に千田と結婚する岸輝子、石黒達也などのメンバー構成でした。
両劇団とも、築地小劇場を本拠に、お互いライバルとして切磋琢磨し、日本の新劇を切り開いていきましたが、1940年、当局の左翼思想弾圧により、両団体とも多くの団員が逮捕され、解散を余儀なくされました。
文学座
1937年、文筆家の岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄(獅子文六)が発起人となり、前年、築地座を解散した友田恭助、田村秋子夫妻を中心に知的大衆に提供する芸術至上主義の劇団として文学座を設立、しかし、友田は召集され戦死、田村も旗揚げ興行に参加しませんでした。
翌1938年3月、第1回公演を開催し、俳優では、徳川夢声、中村伸郎、森雅之、杉村春子、宮口精二、演出家は阿部正雄(久生十蘭)などが参加しました。
その年、第一期研究所を開所し、長谷川如是閑、新関良三、鏑木清方、久米正雄、喜多村緑郎、菊池寛、山本有三、三宅正太郎、渋沢秀雄を発起人として文学座支持会が発足します。
文学座は、1940年に『ファニー』で主演を務めた杉村春子を中心に、当局からの弾圧を逃れ戦時下でも公演を継続、1945年4月には空襲警報下の渋谷東横映画劇場で、杉村の代表作となる『女の一生』を初演しました。
苦楽座・桜隊
丸山定夫は1933年、同棲していた細川ちか子が病に倒れたことにより、お金を稼ぐために新劇を離れ、榎本健一一座にコメディアンとして出演、PCLとも専属契約を結び、映画にも多数出演しました。
薄田研二は、新築地劇団が解散した後、1942年に誕生した大映と専属契約を結び、芸名の使用が禁止されたため、高山徳右衛門という名で数多くの映画に出演します。
1942年、丸山と薄田は東宝の喜劇俳優藤原鎌足と徳川夢声と四人で劇団、苦楽座を立ち上げ、戦後映画化される『無法松の一生』などの演目で、各地での慰問巡回公演に取り組みました。
1944年12月、戦争激化に伴い苦楽座は解散、翌1945年1月、丸山は苦楽座移動隊として政府が奨励する国策組織日本移動演劇連盟に加盟し、多々良純、佐野浅夫、千石規子、永田靖、園井恵子、仲みどり、高山象三(薄田の長男)などが参加しました。
6月、移動演劇桜隊と改称して、広島に疎開、8月6日、そこで原爆に被爆、丸山、園井、仲、高山ら9人が逝去します。
俳優座
1944年2月、青山杉作・小沢栄太郎・千田是也・岸輝子・東野英治郎・東山千栄子ら、十人の俳優や演出家が集まり、俳優座を創設しました。
新劇は島村抱月の文芸協会から始まり、島村と松井須磨子との芸術座、そして小山内薫と二世市川左團次の自由劇場、土方与志と小山内の築地小劇場、築地小劇場が分裂して誕生した千田是也の新築地劇団、村山知義の新協劇団、友田恭助の築地座、築地座から生まれた杉村春子の文学座、戦争激化に伴う新築地劇団と新協劇団の逮捕と強制解散、終戦近くには千田是也の俳優座が創設されます。
文学座、俳優座、戦後誕生する滝沢修と宇野重吉の劇団民芸、築地小劇場の流れをくむ三劇団が中心となって戦後の新劇は展開していきました。
次週は戦後における三劇団の歩みとそこに所属する俳優たちの映画界での活躍についてご紹介いたします。