詩を創ることについて
詩を創るのが好き?と聞かれたら
どう答えたものかしら?と
少しばかり時間を止めて考えてしまう
そんな私がいつの間にか、詩のある暮らしを手に入れたのは、或る男との出会いがあったからに他ならない。
彼の名は「ソクラテス」
とはいえ、彼はなんの書物も残さずに死んだ古代のギリシア人男性。
では、彼の言葉にどのように触れたのかといえば、彼を慕っていた「プラトン」や「クリトン」などが残した物語を読んだだけなのだけれど。
それでも、「ソクラテスは言った」という文脈で語られていく彼の生き様は、他者とのコミュニケーション不全により親や友人知人との交流の難しさに悩む思春期の私にとって、とても大切な「癒やしの物語」だった。
読書することで、私はソクラテス出会い、プラトンやクリトンらと一緒に「我が師ソクラテス」の話を聞き入った。
あの感覚はプラトンやクリトンを「仲間」とさえ思ってしまうくらいのものだったし、このように読書することでその作者を仲間だと思えるくらい感情が動かされるという経験はどなたにもある経験ではないかしら?と思うのです。
「読書する」ということを通じて、人間は誰かと対話ができたり、誰かと仲間になれたりする。
幼少期から現在まで、明けても暮れても読書する、そんな暮らしの中でたくさんの仲間ができて、歳を重ねるに連れ私の内から「寂しい」という感覚が薄れていきました。
でも、薄れた感覚のかわりに知識は膨大に膨れていき、私の中に悶々と蓄積されていくばかりだったのです。とても苦しかったことを今もぼんやり覚えています。人は溜め込むだけでは苦しいのですよね、知識も財産も、体力も、誰かのために使ってこそ人生に「喜び」がやってくるというもの。
そのことを教えてくれたのは40過ぎて出会った「スピノザ」というオランダ人の男ですが、この話はまたいずれに致しましょう。
さて、詩の話に戻します。
膨大な知識でパンパンに膨れてしまった苦しさを開放する手段として「詩を創る」こと、いまも日々行っていますが、冒頭に書いた、詩がお好きなのですか?と聞かれると困ってしまうという話はここに繋がります。
私の暮らしの中に存在する「詩」は、頭の中に想起する様々なものや膨大な知識を一般社会に表出する方法としてとても重要な「手段」の一つなのです。
詩を手段と呼ぶことに抵抗を感ずる人もいるかも知れないが、そこはご容赦くださいな。なにしろ人間というものはより多くの手段や選択肢を持っている方が楽に生きられるし他者とも争うことが少なく生きられますからね。
詩を創るという表出方法をとる理由もあります。
私の個性として、知っている情報はできるだけ詳細にたくさんお伝えしたくなるというものがあります。その個性によってかえって他者を困惑させたり不愉快な思いをさせたりしてしまうことが幼少期より多々あったわけです。
「詩」という表現方法を使うと、「行間や余白部分を楽しんでもらう」という目的を持って表出しようという意識が働くので、他者に表出した情報の出典まで語りかけるようなことをせずにすむのです。
一言でいうと、詩は私にブレーキをかけるための良い手段というわけ。
詩的な表現方法を使えば、「気持ち以外のもの」をあまり表出しなくても良くなるわけですから、自分という人間が何を思っているかを表出するには手放せない手段というわけです。
そんな詩を詩集にして数冊出版もしました。
でも、出版するために詩を創るということは、人生の喜びであるという目的からは遠く離れてしまうことに気がついたので、ここ数年はX(旧Twitter)のみで呟いている程度ですが、こんなもんで丁度よいのです。
そのくらい私には個人的な気持ちの抑揚がさほどないのです。
いつも見上げればソクラテスがいて、そばにはプラトンやクリトン、スピノザやブッダ、イエスや弘法大師、セネカやアラン、聖徳太子や中大兄皇子、小林秀雄や田中美知太郎など、自分が勝手に師匠とか仲間と呼んでいる人々が頁をめくれば其処にいるわけですからね。
そして、詩が素敵な表出方法だとすれば、哲学は素敵な養分のような存在です。私の肉体と精神の中に取り込まれた哲学は、私の血と肉と魂になって私自身の可能性を最大限に稼働させるのですからね。素敵な養分です。
詩のある暮らし、哲学のある暮らし、行き方をこじらせすぎて見つけた自分にぴったりの暮らし方。まさかこんな生き方があるとは子供の頃にはきがつきもしませんでした。
こじらせるのも悪くないね。
みなさんも、たくさんこじらせて、自分だけの生き方や手段を見つけてみてくださいな。ファイト。お互いにがんばろう。
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