ブックレビュー:彼のハッタリに乗っかって、その自己実現の過程を消費する。彼が本当に共有していたものとは? 河野啓著「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」
栗城史多という「登山家」について知ったのは、何度かのエベレスト登頂断念のあと、旧2ちゃんねるなどで「下山家」と揶揄され始めた頃だったと思う。七大陸最高峰・単独・無酸素登頂をめざし、最後に残されたエベレスト登頂チャレンジの過程を「冒険の共有」と銘打ってYouTubeで配信していた。その動画を見たことはなかったし、正直そのチャレンジにもさして興味を抱いたわけではなかったが、何度も登頂を目指しながら、結局「デスゾーン」と呼ばれる8000メートル以上の高度まで辿り着けずに断念する様子から、もはや登頂する気はないのではないか、といわれていることに興味をそそられた。要するに、その有り様が、私たちが登山家一般に描くものとは、まったく違うように思われたからである。
2018年5月に敢行した8度目のエベレスト登山でも、途中で体調を崩して登頂を断念。その直後、下山中に滑落して栗城史多は帰らぬ人となった。本書は、その人物を発掘し2008年から2009年にかけて取材、その後の彼の言動に違和感を感じて距離を置いたものの10年ぶりに取材を再開、そして滑落死という結末に衝撃を受けた著者が、「冒険の共有」という彼の掲げたテーマの裏に隠されていた、その素顔と死の真相を明かそうと、死後に取材し書き上げたノンフィクションである。
著者の河野啓氏は北海道放送のディレクターで、2008年、出張帰りの列車の中で見た雑誌のインタビューで「単独無酸素で七大陸最高峰を目指す」として栗城氏を紹介した記事を見て興味を持ったという。なかでも目を引いたのは、彼のこの一言だった。
河野氏はテレビマンとして、彼のエベレスト初登頂をベースキャンプまで同行して取材したいと考え、企画書を作成。番組制作に取り組んでいた。しかし、その企画は結果的に消滅してしまう。栗城氏に資金提供をしていた人物が、別の放送局に売り込みを図り、先に企画を出していた河野氏制作の番組を優先するよう約束したにもかかわらず、それが反故にされてしまったのだ。
このとき、企画が消滅したことを知らせるメールに対する栗城氏の返信が、河野氏の思いを掻き立てたという。それは「この人は何者なのか?」という思いだった。彼はそのとき、大人の駆け引きに利用された若者、という立場に自分を置き、エベレストで一番重要なのは、単独ではなくインターネット中継だ、と言い切ったからだった。
このことをきっかけに、河野氏は栗城氏の「応援者」から「観察者」に立場を変え、彼自身と、彼を取り巻く支援者らを冷静な目で見始める。そこから、夢を実現したい、という調子のよい若者の掲げた「冒険の共有」というキャッチフレーズに乗せられた人々と栗城氏との相互作用により、彼が主役の「エベレスト劇場」が開演していくのである。
単独といいながら、実は多数のシェルパやスタッフを引き連れ、カメラの前だけ単独だった、など、彼の独特の登山スタイルはよく知られている。他にも、驚くべき実態が様々描かれているが、そこから読み解けることは、栗城史多という人物は、登山家ではなく登山家を演じている演技者だったということだ。本来なら、エベレスト登頂に向けて人知れず努力する、孤高の存在をイメージするところだが、彼はそうではなく、もともと芸人志望だったというだけあり、エベレスト登頂にチャレンジする自分を見せるエンターテイメントを、そこに作り上げていったのだ。結果として、そのエンタメ臭に引き寄せられる人が彼を持ち上げ、それを敬遠する人々は彼から離れていった、ということになる。彼にとって、エベレストに登頂できるかどうかは、さして重要ではなかったようにさえ感じられる。それよりも、自分自身の姿を多くの人に見せ、自己実現していることを他人から承認してもらう、それが彼の求めていたことではなかったか。
彼がエベレスト初登頂に挑んだ2008年前後から、広がっていったのがユーチューバーという存在だ。栗城氏はその先駆けともいえるが、ある意味、その後の広がりによって顕在化してきた問題をも、先取りしていたのではないかと思えるところがある。それは、好きなこと、自分の得意なことを発信する目的で動画配信をする人がいる一方で、自分自身が目立ちたい、有名になりたい、認められたいがために何かの話題を作って動画配信をする人が一定数いることだ。テーマが主体なのか、自分自身が主体なのか、という違いである。そして栗城氏にとってのエベレスト登頂のインターネット中継は、まちがいなく後者だったと、本書は暗に語っている。
それがいいか悪いか、ということは、正直私にはどうでもよかった。しかし、結果的に彼は滑落死してしまった。なぜ、そうなってしまったかを思うとき、やはり、彼と冒険を「共有」しようとしていた人たちのことを、思わずにはいられない。見る人がおり、後押しする人がいるからこそ、彼は自己実現のため、自らの実力が伴っていないことにチャレンジし続けることになったのだ。
そこで一番私が憤懣やるかたなく思うのは、栗城氏が掲げた「はったり」を疑いもせずのっかってしまい、その自己実現を後押しすることで夢を商品に変えてしまった人たちだ。「単独、無酸素で七大陸最高峰登頂」というのは、自分の夢を大きく見せるための、栗城氏のはったりであることは疑いようもない。それを、おもしろい!と裏取りもせずに飛びつく軽さに、辟易してしまうのだ。
七大陸最高峰で、登頂するのに酸素ボンベが必要になる8000メートル級の山はアジア最高峰のエベレストしかない、ということに、著者も取材を始めてしばらくして気づき、「単独、無酸素で七大陸最高峰登頂」という表現の是非について、本人に聞いたことがあるという。そのとき彼は
と言ったきり、何も答えなかったという。
テレビをはじめとするメディアの人たちもアホではないのだから、彼の言うことにはったりがあることには、当然気づいていただろう。それでも、そのはったりにあえて触れずに持ち上げるのは、彼をエンタメとして受け入れやすくするためだろうし、一般の視聴者を騙しても問題ないくらいの存在とみくびっているからだろう。
本書は読み終わったあとも、なんともいえない後味の悪さが尾を引く。それはまさに、メディアの不作為によって、結果的には彼をエンタメとして楽しんだり、応援した人たちが、彼を死に追いやった共犯者のような立場になってしまっていたのではないかと感じてしまうからだ。
そして最後まで、自分自身の作り出す虚像を見せ続けた、という意味で、栗城史多という人物は、孤高の存在だったといえるだろう。