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映画レビュー:機動戦士ガンダムGQuuuuuuX-Biggining-(2025)アムロとララァの存在を乗っ取って三位一体となったシャアがウッキウキで歴史を改変! 禁じ手を出してきたところに、宇宙世紀シリーズの「行き詰まり」を感じた
ストーリー
宇宙世紀0079年、<サイド3>はジオン公国を名乗り、地球連邦に対して戦争を仕掛け、地球に向けてコロニーを落とす。その後戦いは膠着状態に陥っていたが、辺境のコロニー<サイド7>に部下のデニムとともに侵入したシャア・アズナブル少佐は、そこに連邦軍の開発したモビルスーツ「ガンダム」を発見。その機体に乗り込むと、異変に気付いて追ってきた連邦軍の別のモビルスーツを撃破、あわせて開発された新造戦艦もついでに奪取する。赤く塗り替えたガンダムで快刀乱麻の活躍を見せるシャアは、やがてフラナガン機関によってニュータイプとして認定され、ガンダムにサイコミュ兵器を搭載。同じくニュータイプであるシャリア・ブル大尉と組んで、ついにジオン軍を勝利へと導くのであった。だが、二人の間には密約があった。真の目的を果たすため、シャアはたった一人で最後の作戦を決行するが、図らずも行方しれずになってしまう。
それから5年後の0085年。<サイド6>に暮らす高校生アマテ・ユズリハは、運び屋を務める謎の少女ニャアンから、怪しいメカを手に入れたことをきっかけに、ゴロツキたちが非合法に行っているモビルスーツ決闘戦「グランバトル」に参戦することになる。彼女と組むことになった正体不明の少年シュウジは、あの、消えたシャアの赤いガンダムを駆って戦いの場に姿を現す‥‥‥
レビュー
ガンダムという名を冠した映画を映画館に観に行くのは、劇場版「機動戦士ガンダムIIIめぐりあい宇宙」以来のことである。ちょっと、動かされてしまった、という悔しさがある。いずれにしろ、私自身はこのシリーズを世に送り出し続けている会社の客層ではないし、その意味でわざわざ映画館に足を運ぶのは気恥ずかしかった。しかし、今回は好奇心が勝ってしまったのである。
本作は「ネタバレ禁止」として箝口令が敷かれた中で2025年1月17日に封切られたが、それから3週間ほどたつと、Twitter(現X)にもポツポツとネタバレな投稿がされ始め、そういうのを観ていると、ネタバレ禁止にされている部分がおおかたどういう話なのか、見当がついてしまった。映画を観に行ったのは、ある意味その「答え合わせ」みたいなところもあった。
その、ネタバレ部分は上記のストーリーにまとめた通りで、要は1stガンダムの第1話で主人公のアムロが乗るはずだったガンダムにシャアが乗り、ついでにホワイトベースも奪って連戦連勝、結果的にジオン軍が勝ってしまう、というお話である。劇場に1stガンダムでおなじみのオープニングとナレーションが流れたときは「あれっ」と思ったが、<サイド7>にデニムとシャアが侵入するところで、ああ、そういうことねともう答え合わせができてしまった。あとは思った通りに話が進んでいく。主人公だったアムロは影も形もなく(父は出ていた)、せめてシャアがガンダムに乗り込もうとしたときに、マニュアルを手にした少年をポカッと殴るぐらいのことはしてもよかったのではないかと思うがそこは複雑な事情も絡んでいそうで致し方あるまい。付け加えておくと、おなじみのオープニングのナレーションは当然のことながら、ジオン軍に都合の悪い部分は検閲されている。宇宙世紀版「新しい歴史教科書をつくる会」である。
それにしても、シャアがガンダムに乗ったときに、いちいちかつてアムロが言ったセリフを同じようにいうのがギャグにしか思えず、私は笑いを噛み殺すのに苦労したが、劇場の中は静まり返っていて、笑い声をたてるのは不謹慎に思われそうな感じさえした。しかし真剣に観てみたところで、これは往年のアニメ雑誌「月刊OUT」とかに載っていそうなアニパロ漫画(※アニパロとは、アニメのパロディの略で二次創作の源流ともいえるもの)を大真面目にアニメ化してみました!という作品に思えてならず、しかも40分にまとめられた内容はかなり雑な脚本で、庵野秀明らしくキャラが説明セリフでいっぱい語ってくれるから筋はわかるが、やりたいことへ繋げていくための長い前置き、といった感じで正直「早く終わらないかな」と思ってしまった。
もっとも、パロディというのは元ネタを知っているから面白いのであって、元ネタを知らない人が見たら何が面白いのかさっぱりわからないだろう。では元ネタを知らなくてもわかる話かというと、そこはなんとも言い難い。結果的に、これをきっかけに1stガンダムを見てみようという流れができているのは、見てみないと面白さがわからない、というのもあるだろう。
そんな中、作中で表現されていたジオン勝利のターニングポイントは2つある。一つは、シャアがガンダムとホワイトベースを奪ったこと。もう一つは、シャアがフラナガン機関によってニュータイプと認定され、ガンダムにサイコミュが搭載されたことである。つまりシャアは、ガンダムに乗ったアムロ、そしてニュータイプ戦士となってシャアを助けたララァというキャラクターを自分の中に取り込み、さながら三位一体となったことで、ジオンに勝利をもたらす救世主となったわけである。登場しないララァの立ち位置にきているのがシャリア・ブルで、その流れは小説版に似ているかもしれない。そして最後は「逆襲のシャア」を彷彿させる幕引きとなり、シャアは行方不明となるのである。
ここまでで、一番違和感を感じたのは、そのラストでシャアが「刻が見える・・・」と言ったことである。元の作品ではアムロとララァがニュータイプとして感応し合ったときにララァがいうセリフだが、シャアは一体そのとき、誰と感応していたのだろうか?
一方、ここまでで一番心を動かされたのは、そのラストでシャアを阻止すべく単機で残った連邦軍のモビルスーツで、シャアがそこにいるのが生き別れの妹と悟った場面だった。シャアがその勇敢さを称えたその人が、本作でも変わらぬ立ち位置を持っていたのだなと思ったからである。しかし、こうしたことは元ネタを知っているからこそわかることなので、悲しいかな、元ネタを知らない人にはわけのわからない40分間だったことだろう。
こうして一年戦争はジオンの勝利で幕を閉じる。しかも、ザビ家はどうやらキシリア・ザビが生き延びているようである。シャアは志半ばで消えたというわけであるが、シャアの復讐心が作中に描かれているわけではないので、これも、知らない人にとってはどうでもいい話ではなかろうか。
補足しておくと、本作を見てみると、もともと連邦軍が勝利できたのは「ガンダム」とアムロの「ニュータイプ能力」があったからだと作り手が分析していることがわかる。それを、ジオンが完璧にものにしていれば、ジオンが勝てるというわけである。私は全然そうは思わない。このジオン勝利のシナリオには、説得力がかけている。だからアニパロかー、と思ってしまう。かつて、野村克也監督が松浦静山の言葉を引用して語ったように「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」である。私が思う、ジオン勝利のターニングポイントは、いうまでもなくレビル将軍。捕虜にせずにきっちり殺していたら、その後の展開は変わっただろう。それもまた、おそらく作り手も十分承知の自明の理である。だが、レビル将軍が死んでしまうと、ガンダムも開発されずに戦争が終わってしまうので、話が成り立たないのである。
そこから話はがらっと変わって、戦後を生きる高校生の視点に移る。ここからが、本題というわけである。主人公は高校生のアマテ・ユズリハ。家から遠く離れた塾からの帰り、何者かに追われていた女の子(ニャアン)から預かった?紙袋の中には、謎の箱が入っていた。型番から調べてみると、それはモビルスーツに戦闘機能を付加するためのインストーラーだという。このコロニーでは、半グレみたいな若者がたむろして、モビルスーツを使った非合法な決闘ゲーム「グランバトル」を行っているのだ。
そこへ、シャリア・ブル中佐の率いる部隊から発進したモビルスーツ・ジークアクスが戦闘に巻き込まれてしまう。パイロットのエグザベはモビルスーツを隠して逃走しようとするが警察に捕まり、ジークアクスは半グレグループの手にわたる。そしていろいろあって、主人公のアマテが<マチュ>という名で「グランバトル」に参戦することになる、というのが本筋である。
実は、シャリア・ブルはあれ以来、行方不明になったシャアを探しているのだが、バトルを繰り広げるアマテとシュウジ、運び屋のニャアンがどう関わっていくことになるのか、というのがこれからの展開、ということになるだろう。
本作は、導入部である前半と本体である後半とで作風ががらっと変わるところに特徴がある。前半部は上記のように、元ネタがわからないと面白くもなんともないアニパロみたいな展開だったが、後半部はポップな絵柄と疾走感のある展開で、なかなかに楽しく鑑賞できた気がする。作品としては、まだ「第一話」の段階なので、あれこれ批評するにはまだ早いように思う。同じく主人公が女子高生の「水星の魔女」よりは、続きが見てみたくなる展開だった。
ガンダムシリーズにはつきものの「戦争」を避けて、バトルゲームを持ってきたのは、現在まさに戦争が進行中の国際情勢の中にあってはストーリーに課せられる負荷が軽くていいだろう。ただ、もう一つの必須事項になっている「ニュータイプ」はどうなのだろう。主人公のアマテ(マチュ)はなんの予備知識も技量もないままジークアクスに搭乗し、シュウジと通じ合って見事初戦に勝利した。そこは、ちょっとあまりにカンタンすぎないだろうか。「それがガンダムだから」ということだろうか。
さて、最後に触れておきたいのは、「なぜ歴史改変が必要だったのか」ということである。正直、ジオン勝利の道すじをああいう形で終わらせるなら、一年戦争の終結ではなくて、「逆襲のシャア」の終わったあとから話を書き起こしたって全然成り立つストーリー展開である。シャリア・ブルは1stガンダムでは1話限りで死んでしまうキャラクターだが、劇場版には登場しないうえ、本作はフラナガン博士のキャラクターデザインから見るに、劇場版を踏襲しているようである(なお、私見だがバンナムは「劇場版三部作」を正史としているのではないか?元祖初代のテレビ版はやや黒歴史的に扱われている気がしてならない)から、「逆シャア」後の世界にふとシャリア・ブルが現れたって、別に不思議はないだろう。
しかし、視聴者の預かり知らぬところに、いろいろと大人の事情というのがあるわけである。一つは、アムロ役の声優の不倫DVという不祥事、もう一つはシリーズを縛る「宇宙世紀年表」の存在とそこから福井晴敏が生み出した「逆シャア後」の作品である。
アムロ役の声優、古谷徹の不祥事による降板は致し方ないことだと思うが、あるいはこれを奇貨として、アムロがいなくても成り立つ新たなシリーズとして、1stガンダムをリブートしようということになったのかもしれない。それはそれで、悲しいことである。
もう一つの事情の方が、もっと大きいかもしれないが、それは一連のシリーズ公式作品として、「宇宙世紀年表」に従って福井晴敏の手による「機動戦士ガンダムUC」が制作されてしまっていることである。ファンノベルならいざしらず、公式作品がこれをなかったことにするわけにはいかないだろう。そこで一つ目の事情とあいまって、1stガンダムの時点でジオン勝利のパラレル世界を作ってしまえば、以後は「宇宙世紀年表」なるものに拘束されず「自由」になるというわけである。
作中で、主人公のアマテ(マチュ)はいう。「宇宙って、自由ですか?」
そうだ、この作品の宇宙では、もろもろの縛りから解放されて自由になったのだ。しかし、そうなってしまったのはなぜなのか。結局のところ、自ら定めた「宇宙世紀年表」なるものにがんじがらめにされて、シリーズが行き詰まってしまったからではないか。それを打破するためには、最初の歴史を改変するしかなかった、ということなのか。
この世界では、三位一体シャアは三つにわかれてアマテ、シュウジ、ニャアンに転生しているのかもしれない。あるいはシュウジの頭の上に乗っているオレンジ色の物体が、そうなのかもしれない。しかしそうやって古いものを結びつけるのはやめにして、もっと新しいストーリーが楽しめるものになったらいい、と願っている。
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