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2023年 親と子の間で考えたこと その2

ことさらに子供には未来があると言う前に大人も自分に未来があることをしかと受け止めたい。(5/5)

厨二病(中二病)は評判が悪いが、中学時代のアンビバレントなバランスのまま人生を生きている人が好きだし、自分の中の子供と遊び続けている大人は楽しそうだ。それは無責任な生き方と思われがちだが、むしろ責任について考え続けるような生き方になりうる。(5/11)

朝からインタビュー。「中学受験前の時期、睡眠時間はどれくらいとったらいいか」という質問の前で絶句してしまい、「そんな問いが生まれること自体、子供がかわいそう...」と率直な感想を述べた。中学受験は睡眠時間を削ってまでするものではない。(5/12)

やってくる宿題のページを間違って涙ぐみながらそれを報告に来る子。きっと彼はこのことをずっと覚えてはいない。でも今は涙が出るほど悔しいし辛い。子供はそういう「今」の気持ちが大人よりずっと強くて、それを毎日浴び続けているうちに、自分の生き方が変わってしまった。(5/15)

頑張っていない子に「あなたなりに頑張ってるね」と言う理解のある風の親は単に甘いだけなので子供はいつまでも頑張らない。当たり前である。(頑張ってるのに成果が出にくい子に「頑張ってるね」と伝えることは必要なことだがこれと混同しないためには子供の観察が必要になる。)(5/15)

親が子供時代や若い頃に力を入れなかったものについて、自分の子供がそれをやると言い出すと無関心だったり非協力的であったりする。大人というのはそういう身勝手な存在だが、子供の段階で大人のそういう部分を把捉することは難しい。分かるのはずっと後のことだ。
これと似て非なることとして、親が子供時代や若い頃にやり損ねたと感じていて、いまだにその劣等感を拭えない場合には、反対に子供に(必要性がいまいちわからないまま)過剰にやらせようとすることする傾向が強く出やすい。自分の欠落を子供に手当てさせるような子育てをする人は多い。(5/19)

いまの教育現場(家庭を含む)は子どもの意向を聞く、希望を尊重するとか言って、結果的に何もできない大人が多すぎる。子どもがわからないときは手を引いてあげないといけないのに、それができない大人が多すぎる。(5/22)

朝日新聞のインタビューで答えた「塾に初めて来た生徒の約半分は、宿題の答えを写して提出するのが当たり前になっていた」というのはリアルな話で、子供たちにまず促さないといけないのは宿題との出会い直し。彼らが当然視しているやり方に驚き呆れ、これまでのやり方がいかに表面的で形式的であったかに気づかせることで、彼らと宿題との縁を結び直さないといけない。(5/29)

夫婦間の足りないところを片方が補おうとすることが、子供にとってはかえって過剰であるということが多々ある。足りないというのは大人の見立てであって、子供にとっては足りないくらいでよかったのだ。(6/3)

親が私の二の舞にならないように、私の傷を連鎖させないようにと努めて子供に振る舞うのは、それ自体が子供にとっては狭小な偏りとなりやすい。子供と私はそもそも別の軌道を回って生きていることを忘れるとそうなる。(6/7)

定期テストの勉強と違って、範囲が膨大でゴールがいまいち見えにくい受験勉強においては、勉強の目的が学力をつけて成績を伸ばすことから「やった感」の獲得にスライドしやすい。これを自覚できない生徒や親もいて、はっきり言って致命的である。(6/11)

大人が子供に成功体験をすすめるのは、過去の栄光にすがって生きることを子供に教えるようなものなのでやめたほうがいい。もっと別の体験があるはず。(6/13)

子供の自己肯定感を育てるとかそういう能書きはほんとどうでもよくて、問題は目の前に圧倒的な熱量の塊、生きるエネルギーそのものとして存在する子供に対して、本人以上に本人を信じてそばにいられるかということでしかない。(6/19)

「男の子の子育ては絶対に男親が積極的に介入したほうがよい」といういかにも今どき向けなツイートが流れてきたが、真に受けないほうがいい。父親がよかれと思って男の子の子育てに「積極的な介入」をする家庭が増えたが、真面目な父親ほど男の子の自由な魂を窒息させてダメにしてしまう。
頑張れなかった自分の二の舞にならないようにと子供に厳しくする親は、自分が頑張らないくらいのバランスでこそうまく生き延びられたことを甘く見ている。親ふたりが同じ方向を向いた子育てほど子供にとって苦しいものはなく、片親が介入するときにはもう片方はふらふらしているくらいがちょうどいい。(6/19)

ツイッターで子供のレベルが低いことを嘆いている指導者たちは、単にその人たちが子供たちと知識や知恵を共有するスキル(または環境)が不足しているのでは?と疑って見ている。(6/21)

大人なんて倫理的にたかが知れているということをネットのせいで子供たちは人生の早いタイミングで知ることになった。子供たちが大人への幻想を十分に抱けないというのは大変な喪失だ。(6/28)


大人、そして親は子供の前で大人らしく、そして親らしく振舞おうとする。その「らしさ」が虚勢でしかなくても、子供の大人に対する憧れは彼らの主体の支えになってきたはずだ。その上で、幻想を食い破って自分なりの道を見出すことでその人なりの生き方(創作)が生まれる。(6/28)

自分の両親が多少バランスを欠いた人間だったとして、子供がそのことに容易く気づけるわけがない。両親がその子供にとっての世界だから。(7/5)

子供のころじゃりン子チエや北の国からなんかを見て世界に泥臭いものがあることを知った。こういう世界にも慣れないとやっていけないかもしれないとどこか畏怖しながら見ていたところがある。今の(特に都会の)子供たちは泥臭さをどこかから調達しているんだろうか。(7/6)

今日も焦る親に「あなたはできない」と言われて、本当にできないと下を向いてる子供が日本中にたくさんいるんだろうな。できるのに。(7/7)

親が設定した価値観を内面化して、その中で自分をジャッジしながら生きているから苦しいだけだよ、というのを本当の意味で伝えるのはとても難しい。(7/10)

「宿題」を一方的に否定するツイートを見ると、そういう人たちは、「宿題を出してほしい、でも宿題はイヤだ」という、多くの子供たちが持つアンビバレンツな感情のことを知らないんだろうかと思う。(7/16)

例えば担任が若い女性の先生になったときに偏見で「あの先生、大丈夫かな?」と子供の前に言うことがいかに先生の学級運営を阻害することになるか(学級崩壊の主因にさえなる)。 塾や習い事も親が子供の前で先生に対する疑念や悪口を言い始めた時点でそこはもう辞めたほうがいい。(7/17)

「勉強することの大きな意味のひとつは、それを通してあなたが親をはじめとする身近な大人の思考の影響から距離を取ることができる点です」(『君は君の人生の主役になれ』)について、先日の読書会で、勉強を通して自分の生育環境になかった言葉を手に入れて親と距離を取ることは、必ずしも親を「捨てる」ことじゃなくて、むしろそういう過程を通して初めて発見できる親の姿があるのではという話になったのがとても印象的だった。距離が近すぎて包まれたままでは見えないことの方が多い。 (7/17)

子供たちをある程度長い間見ている指導者であれば、カンニングをする子に対して「悪い子」と即断しないはずである。そうではなく、この子にカンニングをさせる力の正体は何だ?と考えるはず。(7/19)

受験(特に小受・中受)がどんなに取り繕っても多くの子供の人生に暗いシミを残さずにはいられないのは、子供が親の期待に応えるという構図ができるから。他人の期待に応えるような人生は自分の人生ではないから。(7/21)

親の期待に応えられないことに罪悪感を抱いたまま身動きが取れなくなっている子がいる。親の期待を愛と勘違いしてもっと期待を掛けられたいと願っている子供もいる。(7/21)

毎日先生らしさという虚構を身にまとって子供たちと付き合っているけど、子供たちを生徒として扱うのは単なる見立て以上のものではなく、うごめく生き物たちと付き合っている感じがずっと継続している。(7/26)

うちの子勉強しなくて…と勉強をしない子供に業を煮やしている親の隣に座っているのは、勉強どころか生きる気概を失った子供であったりする。なぜそこに気づかないふりをしたまま勉強をやらせようとする? (7/26)

自分自身に抜けたところがあって、そういう自分をまあいいかと自然に受け入れている親に育てられた子供は、随分生きるのが楽なように見える。(7/31)

子供はかわいい。でもかわいいかわいいだけでは仕事にならない。当たり前である。(8/4)

教室だけでは目の前の子供たち一人一人のことをあまりに狭く捉えてしまうという当たり前の事実を、日々勉強だけを教えている大人たちは深く捉えたほうがいい。子どもたちに瞠目した一日。
教室外の子どもの姿を見ることで、その子の勉強を指導する際のアプローチの幅は広がる。それが子供に立ちどころに好影響を与える保証はないが、この可能性の広がりを生かすことは指導者にとって決定的に重要だ。(8/8)

子供を愛しているという自負は、たびたび親を傲慢にして現状を見えなくする。子供を愛している事実と、子供のことが分かることとの間には、直接の相関関係はないのに、私こそ分かっていると錯覚してしまう。その結果、図らずも子供を踏み潰してしまう。(8/9)

昨今の真面目な教育者や親たちは、子どもに対する解像度を高めること、詳細に分析することを目指すが、これが良くない。子供は分からないから子供なのだ。そういう畏怖の念がかつての社会には自然に存在した。今行われている子供の分析は、結局のところ配慮という名で新しい管理の口実になっている。(8/9)

進路指導に関する面談では教師や親が夢や目標がない子供を嘆くという定番の場面があるが、そう言う大人の多くは夢とは程遠い人生を送っている。夢に生きる数少ない大人たちは、文字通り夢中の人なので夢というより今で溢れている
大人は子供の夢や目標がないことを嘆きながら、その子の欲望を抑圧することを平気でやってしまう。そうではなく、その子に自分の欲望の輪郭を素描するヒントを与えることを通して、結果的に自らの欲望に忠実に生きるという自由への道を朧気に指し示すことができればいい。(8/11)

しかし、読書や対話を通して周囲の子たちより自分の欲望を素描する訓練をした結果、むしろ社会と欲望の間の軋轢に自覚的になったばかりに葛藤が増した子どもたちも見てきた。自由になるためには「周りと合わせて生きないと危うい」という思い込みを粉砕しなければ欲望は空転するようだ。(8/11)

公立中の内申点なんて全然本質的じゃない。でもちょっと真剣にやらないと点が取れなくて入試で損してしまう。仕方がないから半笑いで制度に従う。 真面目な大人は真面目に内申点に向き合うよう子供に伝えるが、半笑いで切り抜けるくらいでちょうどいい。でも人生は半笑いばかりではいけない。(8/11)

いまの子供世代は大人には想像がつかないレベルで昭和時代が歴史化している。今の子供たちにとっての太平洋戦争、第二次世界大戦は、私たち世代にとっての第一次世界大戦より昔のこと。完全に歴史の領域であり、"艦これ"以来の近現代ブーム(今や歴史を好む多くの子供たちが好きなのは戦国時代ではない)もこのことを踏まえて考える必要がある。(8/15)

親には大人としての役割がある、まさにそうで、でも親という立場に居直ることは、子供を支配することになる。ならば、親ときどき子供、つまり二つの間の運動を繰り返すことで、その都度に切実な思考を摘み取っていくしかない、それが自分なりの適切さを見つけていく作業になればいいなと思います。(8/17)

いまだスポーツチーム等で暴言やセクシャルな発言、坊主の強要などでハラスメントを受けまくっている子供もいれば、子供の現実を先回りして否定しない傷つけない全肯定の環境で育つ子供もいて、子供の環境は両極に振れているがどっちも間違っている。(8/19)

大人の「傷つき」の視点から子供を捉えようとすると根本的に誤る。「弱くても大丈夫」「頑張っているから大丈夫」という言葉はすでに社会との摩擦が現前化している子供にとってはまやかしでしかない。まやかしの慰めは子供を無力化する。いまの子供はまやかしの慰めばかりに包囲されて大変な状況だ。
ハラスメントについては辛うじて声を上げる人たちがいるが、子供の現実を先回りするまやかしの慰めの恐ろしさについては警鐘が全然足りないから、このことを強調せざるをえない。子供が「弱くても大丈夫」「頑張っているから大丈夫」という言葉を必要としているのは、子供自身ではなく、(多くの場合)その隣にいる親なのだ。このことはよくよく考えないといけない。(8/19)

大人は子供の前で絶望を語ってはいけない(子供が希望を持てなくなるから)という言葉がTLで流れてきたが、今の大人が子供に図らずも教えているのは「先に絶望しておいたほうが楽」という処世術であり、絶望がデフォルトだからこそのワンチャン狙いなのである。(8/19)

10年くらい前まで子供たちの間で「ぼっち」が「教室などで友だちがいなくてひとりでいる人」という意味で差別的に使われていたけど、そういえば使う子がほとんどいなくなった。「ぼっちの何が悪い?」と考える子や「ぼっちは恥ずかしいことじゃない」と自然に思える子が増えたと思う。(8/20)

はっきり意見を表明をしない子に対して親はイライラするけど、子供はいま生きることに意志なんてものは必要としていないし、それが自然だからしょうがない。子供が自分の力で幸せに生きていくことを大人が願うのなら、少しくらい回りくどくても、大人が意志という不自然なものを押し付ける以外の方法で子供を感化する力を身につけないといけない。坂口恭平さんがいつもやってることや、最近出た佐藤ねじさんの本なんかはそこらへんのヒントに溢れている。(8/20)

いくら教師たちが学生に「本気になれ」と伝えても、彼らが通学中に電車で見る大人たちは、スマホでパズルゲームをしながら「人生とは退屈をやり過ごすことである」という真実を隠そうともせず、人生の本当をメタレベルで語ってしまう。でも、退屈をやり過ごす工夫には、いろいろやりようがあることくらいは、子供にもっと伝えられたらいいと思う。(8/20)

大人が子供に求める「夢」の選択は、子供が社会の中で無難なオプション選択をすることを望んでいる程度のものなので、結果多くの子供が無難さだけを目標とするようになる。しかもそういう子が大人からは評価されやすい。そうでない子の無限の可能性を見ないのは自分の無難な人生が否定されるからか?(8/22)

子供と関わる仕事をしている人たちは、自分なりの「いじめ」の定義をしっかり持っておく必要がある。これは本当に必須だ。(8/29)


その3まで更新予定です。


その1はこちら














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