9. 光と闇の狂宴
「だっさ。こいつが強盗を倒したって大嘘ね」
梯子から滑り落ちて頭を抱えているエルを見下ろしてエレナは言った。
「それで? 《ヘデラ・ヘリックス》の意味は何だったの?」
「……。もうちっと相手を心配しても罰は当たらないと思うが」
ぶつぶつ文句を言いながらエルは一冊の古書をひらいた。
「私は焦ってるの! ユーリア人は今みたいに差別される対象じゃなかった! 支配層のガリシア人はもちろん、敗戦国のザクセン人からも白い眼で見られて、意図的に教育や就職の機会を奪われてる……。あんたがここに来る前に放浪してたのもそのためなんでしょう?」
エルは髪の毛を毟りながら息をついた。
「憤っても無駄だぜ。ザクセン朝に仕えていた俺たちの親世代が、こぞって謀反を起こしたりしたからこうなったんだ。今さら俺たちが過去の歴史を変えることはできない。できるのは、散らばったユーリア人に関する正しい情報を集め、整理し、人々に伝えることだ」
涙を必死に堪えているエレナに、エルは淡々と続けた。
「頭を冷やして、気晴らしに謎解きといこうぜ……。かつてユーリア人が記号伝達を使って意思疎通を行っていたことは有名だ。《ヘデラ・ヘリックス》も、何らかの意味を伝えるひとつの記号だったと考えていいだろう」
「その何らかの意味が分からないから、こちとら苦労してんのよ。あのピーコックでさえ、皆目見当がつかないんだから」
エルは彼女のさぼり癖を思い出して苦笑した。
「ダビィから聞いたぜ。ピーコック先生は生徒に不人気だけど、ガリシア帝国史の研究者としては優秀らしい。でも、優秀ゆえにヒントを見落とすことだってある」
彼が指し示したのは、分厚い古書の最後あたりを開いたページだった。《ヘデラ・ヘリックス》の紋章が真ん中に大きく描かれている。さらに、右肩上がりの癖字が余白を埋め尽くしている。
「そこ、私が擦り切れるまで繰り返し読んだところよ。これ以上はないってほど考察を加えてみたけど、結局答えにたどり着けなかったわ」
「いいや。むしろ、お前があらゆる仮説を書き出してくれたお陰で、考える手間がだいぶ省けたよ」
《ヘデラ・ヘリックス》は、図像としてふたつのパーツに分けられる。放射状に八本の光線を伸ばす「八芒星」と、八芒星を取り囲んでいる「蔦」のモチーフ。エルは懐かしむようにその輪郭をなぞった。
「俺の祖父は、かつて村のシャーマンを務めていた。だから占星術の原理や図像パターンの意味に詳しかったんだ」
俄然、大きく瞳を輝せたのはエレナである。
「じゃあ、《ヘデラ・ヘリックス》の意味も?」
「いや、祖父が教えたのは記号伝達の《読み方》だけだ。個別の図像の意味までは明かさなかった。シャーマンだけが許された、門外不出の知識だからってな。……って、いきなり萎むなよ。水風船か」
「でも……」
「《読み方》は教わったと言ったろ? たとえばこの八芒星。八本の線の長さをよく観察するんだ。向かって一番右と一番左の線がもっとも長いだろう?」
「そうね。まるで星をふたつに分けてるみたい。左右に伸びた線を境にして、上半分が白抜きに、下半分が黒で塗りつぶされているのも気になってるわ」
いいセンスだ、とエルは思った。
「星の図像を二等分してるんだ。これが何を意味するかが問題が、ユーリア人に伝わる古い聖句のなかに、星が登場するものがあるだろう」
――星は光と共に在り、光は闇と共に在る。
「その通り。この図像でいう上半分の白抜きは太陽が昇る時間帯、つまり昼間を意味している。反対に黒で塗りつぶされた下半分は夜を意味する。光は昼間を、闇は夜を表すメタファーだ。つまり、光と闇がセットでこの世界の『時間』を表している」
そう言って、改めて聖句をページの余白に書き綴った。
「星、光、闇。この聖句は、星という存在が、光と闇という『時間』と相互補完的に関わっていることを示しているのさ」
「じゃあ、星が二分されるっていうのは、光と闇、つまり昼と夜がちょうど二つに分かれる時……ああ!」
「もう分かっただろ? 昼夜の時間が二等分されるのは、分天の祭りの日。今年の祭りは、タイミングのよいことに明日と来ている。きっと、明日になれば真相に近づける可能性が高いと思うぜ」
エレナは真剣な表情で、しかし昂奮を抑えられぬよう大きく頷いた。
☆ ☆ ☆
同時刻、とある地下室。
薄汚れた身なりの男たちが、ろうそくの明かりの元に集まって座っている。丸太のような屈強な大男もいれば、薬物中毒の痩せっぽち、ネズミの眼をした小柄な下人など、十人あまりが無言のままに蝟集していた。
「分天の祭り」
口火を切ったのは、腕にチェーンを巻きつけた男だった。咥えた葉巻をろうそくに近づけ炎を灯すと、美味そうに煙の輪を吐き出す。
「計画とおり、明日の正午に作戦をはじめる。ネズミ!」
ネズミと呼ばれた男は、恭しくお辞儀した。
「はい。陽動部隊の準備は整っております。前回と同じく抜かりありません」
すると、チェーンの男は地面を荒々しくネズミを殴りつけた。
「抜かったではないか! この阿呆め!」
ネズミはあまりの激痛に声すら出せないが、口元は不気味に嗤っていた。親分の暴力とネズミの狂気じみた態度に、他の仲間は固唾を呑んで座っている。
「たしかに、斬拳の小竜が倒されたのは想定外でした……。しかし、彼は自分の職責を果たしました。ふふ、所詮はただのかませ犬ですよ」
チェーンの男は思い切りネズミの腹を殴り飛ばした。胃の内容物が溢れたが、ネズミは荒い息を断続的に吐きながらも続けた。
「ザクセンの敗残兵だった彼を買い取ったのは、他でもない貴方ではありませんか。あのまま放っておけば餓死するか、もしくは盗賊に落ちぶれていただけでしょう。彼に仕事を与えたのは賢明な判断でしたよ、ボス」
「曲りなりにもあいつは軍時代の同期だった男だ。背徳感情の薄い奴だったが、心の底からガリシア軍を憎み、それ以上に裏切り者のユーリア人を憎み、俺たちの活動に賛同した志士の一人。敬意を払え」
ネズミはふらつく身体を持て余しながら身を起こした。
「さすがは篤信家で有名だった御方だ。私と違って情にお厚い」
ネズミは胸の前で十字を切ると、改めて恭しく跪いてみせる。
「この命に代えて、必ずや目的を果たして見せます」
ボスと呼ばれたチェーンの男は、イラつきながら葉巻を奥歯で噛み砕いた。夜空に架かる満月が浮雲に隠れて、不安そうな月面を半分だけ覗かせていた。
(つづく)
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