感情の量について
人によって体力に違いがあるように、
感情の量にも違いがある気がする。
両手を挙げて喜ぶ人と、
小さくガッツポーズをする人。
赤子のようにわんわん泣く人と
汗とも見紛うばかりのただ数滴の涙を垂らす人。
私は感情の量が少ないように思う。
意識をしなければ、本当に一日表情を変えずに生きてしまうくらいに、表れてこない。
感情が動かないわけではなく、
表に出るほどの感情量ではない、というほうが言い当てている。
きっとそういったことで勘違いをさせたことがある人もいるのではないだろうか。
こういう人間にとっては、
幹事のような中心的役割を担うことはかなり労力がかかる。
周りに気を遣い、周りを盛り上げようとまず自らが明るく振る舞わなければならないから。
また見事に演じてしまうのも私のような人の特徴で、
その疲れがその日ではなく、翌日、あるいは休日にどっとくることを知るのは私一人である。
疲れは、体の怠さという疲れではなく、
人に会いたくないという精神状態となって表れてくる。
だから、だからという接続詞が適切かはわからないけれども、
人に会いたくない時があると周りに言っても、あまり深刻には取ってもらえなかったりする。
恐らく、幹事やらなにやらの役割を担っている時の私は、
お猪口に水道水をドボドボ入れているようなもので、
容量に収まらない感情を出してしまっている状態ではないか。
そして、自身の内側が水浸しになっていることに、翌日あるいは休日に気付く。
そういった状態ではないか。
体力のように、運動を続ければ、増えていくようなものなのだろうか。
経験値を積めばレベルが上がりHPも増える、
そんなものなのだろうか。
そうではない。
正確には、そうではないと信じたい。
感情量少目人間は絶望しない。失望しない。
より深く、人生の出来事を味わえるのだから。
お猪口で飲むからうまいのです。