【短編小説】Hour Hands
朝、歯ブラシの手を止めて、kはふと、陶製の洗面器に落としていた視線を上げた。
するとまず、大学入学前に浪人した男と目が合った。それから、工学部の修士二年目で留年した男とも目が合って、電子情報工学で博士号を取った男とも目が合った。彼らは一体の影に、諦めて安住することを受け入れたかのように、絶妙なバランスで集約されていた。
四角い顔に、広い額、痩せた頬。太い眉、細く吊り上がった眼。歪んだ鼻筋に、出っ歯を覆い隠すフグのような唇。電卓やゲーム機本体を分解しまくっていた少年のころから、神様がヒューマンエラーを真似して造ったかのような顔は大して変わっていないように思える。四十四歳まで童貞だった人相の悪い父親の特性が、余すとこなく遺伝子に載せられて、しっかりと受け継がれたらしい。
だからといって、別に、それがどうということでもない。
唾と血を絡めたひとかたまりの歯磨き粉が、呆然と開かれたままの少年の口からどろりと垂れた。kは慌てて前のめりになって、溢れてくるねばついたものを洗面器にすべて吐き出した。歯医者に行くたびに、まったく同じ歯磨きの指導を年下の歯科衛生士のおねえさんから賜るのはもう御免だった。
歯磨きを再開して蛇口を捻り、透明な水で汚い粘液を排水溝へ押し流す。しぶとく洗面器に留まろうとするそいつから目を逸らすようにして次に顔をあげたときには、鏡の向こうに少年はいなかった。
二十五歳で死のうと思っていた。
今でもそう思っている。二十五歳で死んでやると。その彼も、今年で三十歳になるkの影に、くっきりと爪痕を残している。
kには二つ下の弟がいた。
四十四歳まで童貞だった父が、kという子孫を残せたのでさえ奇蹟だったはずなのに、だ。
弟は母に似て、丸顔の美男子だった。あるべくして引かれたような細くしなやかな眉に、大きな二重の目。高く筋の通った鼻梁、知性を感じさせる薄い唇。歯並びが良くて、顔には常に冬晴れの空みたいにクールな笑みが浮んでいた。兄弟という贔屓目なしに客観視してみても、かっこいい男だった。
弟はよく言っていた。「喜んで犠牲になるよ」と。
その言葉を初めて耳にした瞬間は、もう一生忘れないだろう。あれは、中学を終えた春休みのこと、kが進学先の高校で寮生活を送るために、実家の荷物をまとめているときだった。どんな会話の流れだったかまでは判然とはしないが、共用で使っていた子供部屋からkの私物だけが箱に詰められていく光景を眺めながら、弟は静かに零したのだ。
「まあ、kが宇宙まで飛べるのなら、私は喜んで犠牲になるよ」
今なら。今なら判る。弟が自分のことを“わたくし”などとおどけたように称すのは、SOSのサインなのだと。
高校から大学院博士課程を終えるまでにkが実家へ帰省した回数は、おそらく片手で数えられる。
滅多に近寄らなかった。むしろ帰りたくなくて、博士にまで進むことを選ばされたような気さえする。物理の道を進んだのだって、もちろん向いていたのだろうというのは認めるけれども、高校の数学教師だった父とは違う属性に逃れたかったから、と考えれば半分ぐらいはそうなのかもしれない。
離れた場所で寮暮らしをしていたとはいえ、父の授業はひどい、という地元の噂は聞いていた。弟からはもちろん、父が就く高校に進学した中学時代の友人数名からも、それはそれは非難轟々、苦情殺到だった。
始業五分前には必ず教室に入ってきて、チャイムと同時にまず全員を立たせる。挨拶のための起立ではなく、その状態で授業を進めるのが彼のスタイルだったらしい。予習をしておくことは前提で、「メモしろ」と言われたこと以外ノートをとるのは厳禁で、無作為に当てられ、質問に正しく答えられた者から着席できる。一人、また一人と席に座っていき、父が投げた問いに答えられない生徒はいつまでも立たされたままで、「解りません」の一言はイコール“怒号”というマシンガンの引き金だったのだとか。
想像すると恐ろしくなる。ただ解らないということを解らないと伝えただけで、目と鼻の先まで迫り来た再雇用の老害教師からああだこうだと恫喝される生徒たち。父の授業を受けたくないがために文系の国公立コースを避けて私立文系コースに進み、以降理数分野への可能性を完全に諦めた高校生が、これまでに果たして何人排出されたのだろう。
だからといって、別に、それがどうということでもない。
生徒は往々にして教師の奴隷だし、文系か理系は選ぶものではなく、時間に追い立てられてやむなく選ばされるものだ。自分の意思で興味関心を見出して進路を決められる者など、たまたま恩師に巡り合えたほんのひとつまみの幸運な弟子だけである。
教壇に廻ってくる教育者の当たりハズレが人生を大きく左右する。それはもう、学校というシステム上、救いようのない仕様なのだと思う。
何よりも問題は、高校生の弟が、まさにそのハズレの教師とひとつ屋根の下で暮らさざるを得なかったこと。そして、その当たり前の事実にk自身がうっすらと気づいていて、そのうえで何もしてやれなかったことだ。
父はkによく言った。おまえには才能がある、と。
また母はよく息子二人を評してこう言った。うちの子たちは大丈夫よ、と。だって優秀だもん、と。
それを聞くたびに、少年は思った。あんたら本気で言ってんのか? と。
浪人生は思った。盲目すぎやしないか? と。
博士も。馬鹿なのか? と。
弟には才能があった。
おれなんかとは比べ物にならない。あいつは天才だったんだ―――
“世の中のおかあさんはほんとうにお金をもらったほうがいい”
そんな声が耳に飛び込んできて、kはふと我に返った。気づいたらスタンディングデスクに置いてあるパソコンの前に立っていて、配信サイトでショート動画を流し見ていた。鬱屈とした憎悪の沼に引きずり込まれていたからか、歯磨きを終えてからリビングに戻ってくるまでの記憶がなかった。
大きなハエを振り払うように、左耳だけに填まっていたワイヤレスイヤホンを引き剥がす。反射的にCtrlとWキーを押し、一秒だけ放心してから仕事のメールボックスを開いた。
親に金を払う? 誰が払うのかは知ったこっちゃないが、冗談じゃない。
“世の中のおかあさん”を解ったような口で語るな。家族の関係を金銭で結びつけるのなら、払ってやる代わりにもっと機能的な母親と低燃費な父親を寄越せ。そう叫んでやりたいのは世界中でおれだけじゃないはずだ。
ヒトが発明した物の中で、詩とボーカロイドだけは好きだった。学生を生業にする傍ら、フリーランスで楽曲のミキシングとマスタリングを手掛けるエンジニアをしていたのは、それだけが理由だった。
簡単に言えば、人が録音した音楽に加工を施す仕事だ。サウンドクリエーターなんて言えば聞こえはいいが、パソコンと半日ぐらいにらめっこをしているだけのいわゆる地味なデスクワーカーにほかならない。基本的にはオーディオ編集ソフトを駆使して歌声と楽器のバランスを整え、ノイズを取り除き、依頼人の意向に合わせて曲調に色味を加えていくのが主な作業といえるだろう。ひととおり品質磨きを済ませて、様々なメディア媒体で再生できるフォーマットに仕上げて、完成品を依頼主に送り返すまでがkの責務である。
就活を諦め、学士の卒論に追われ始めたころから編集ソフトを触り始めた。修士の卒論と並行して商売じみた活動をはじめ、留年が確定したころには呼び掛けなくともぽつぽつと依頼が舞い込んでくるようになった。それからボーカロイドに誘われるように電子情報工学を究め、博士を取るころにギリギリ生活していけるぐらいの収入を稼げるようになった。教授の道へ進むか技術者の道へ進むか迷っていたので個人で奔走していたが、大学卒業と同月に技術者のほうを法人化した。
メールボックスには溢れんばかりに新着メッセージが届いていたが、kはまずフラッグの付いた一件を開いた。技術者を始めた初期の初期から音源を託してくれる、こちらは勝手にタッグを組んでいるとさえ思っている顔も本名も知らない歌い手の女性からの依頼である。
小休憩を挟みつつ、昼過ぎにようやくミキシング作業を一旦終えると、kは屈伸をして背後のベッドに倒れ込んだ。
契約を交わし、音源を聴き、編集ソフトを操り、要望に応え、製品を渡す。売上を上げて、経費を引いて、利益を確定させて、税金を納める。小慣れてくれば、張り合いがなくなる。「要望に応え」るために頭を働かせている時間以外は、もはや仕事ではないのかもしれない。
「・・・・・・はあ」
kは溜息を吐いて、床に足を放り投げたまましばらく瞼を下ろした。すぐにゴミ収集車が外の路地に入ってきて、そのけたたましいエンジン音をきっかけにして、重い脳を落っことさないようにまた立ち上がった。
品質の確認のため、依頼主にメールして、ミックスした音源ファイルを送り返す。この女性は初期のころから、あまり作品に対して四の五の要望を言ってこない。こちらの腕が彼女の感性に絶妙にマッチしていているのであれば構わないのだけれど、あまり彼女から作品へのこだわりを感じないのも疑問だった。まぁ、契約どおりに報酬は貰っているし、作業が少なくて時間を取られないのは素晴らしいことなので、こちらとしては別にまったく問題はないのだが。
さらに三件の依頼人と契約を交わし、各音源を自分のミックスの癖を学習させた生成AIに掛け、彼らの要望に沿いつつそれぞれ百通りずつ加工してみせよと指示した。
もうkの手で導いてやらずとも、AIの技量は人間のそれに負けずとも劣らない。業務効率化の試みも兼ねて、単発の依頼はもっぱらAI任せになってしまっている。自分っぽいミックス処理をしてくれて、自分よりも百倍も千倍も仕事が速いのだから、もう完全に自分の上位互換だ。
生成処理が行われている合間は暇になるので、kは今度こそベッドに突っ伏して、布団に潜り込んだ。
この繰り返しを、あと何年続けるのだろう。
力なく降りてくる瞼に抗わず、何度も考えたおなじようなことを、また考える。海の向こうでやっているらしい戦争のこと、女の裸のこと、二十五歳で死のうと決めた日のこと・・・・・・。
「・・・・・・おれ、もう三十なのか」
口から洩れた息は言葉になったが、耳には届かなかった。代わりに、冷えた床や壁や、温かい家具や機材が、それを聞いた。
k。
「ん?」
人はもう、試験管から生まれてくるようになったのかな?
「どうだろう。まだ出会ったことはないな。どっかにはいるんだろうが」
そう、じゃあ、もうぼくたちが滅びることはないね。
「かもな」
喜ばしいことだね。
「・・・・・・ああ」
k。
「ん?」
kの夢は叶った?
「いいや」
叶いそう?
「どうだろう。夢は夢だし、そもそも考えたこともないかもなぁ。絶対に歩みたくない、“逆夢”的な道なら無限にあるんだが」
父さんがまだ何か言ってくるの?
「いいや、別に。親は親だし、それこそ夢みたいなもんだろ」
音楽を創ってるんだってね、すごいじゃん。
「すごくなんかないさ。もう、何もやってないに等しいよ」
そうなの?
「ああ、何かを創るなんてのは、もう人間の仕事じゃないから」
じゃあ、人間は何をするのさ。
「お笑い芸人か軍人かの二択を迫られるだろうね」
お笑い芸人はちょっと興味あるな。
「へぇ、意外だな、おまえにそんな関心があったなんて」
渾身の一発ギャグを披露して、ウケなかったら徴兵だろうね。よく練っておかないとなぁ。
「そうだな」
目を覚ますと、こちらに背を向けていた少年はふっと影に紛れた。
見覚えのある少年だった。ここに弟はいないよ、といつものように教えてやってもよかったが、瞼を開けたときにはもう、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
それは一瞬のことだった。
ベッドから這い出たkはパソコンの前に立ち、AIが出力した三百通りの成果を五秒ずつぐらい飛ばし飛ばしで聴き流していった。要望に応えられていると直感したものを選別していき、採用したそれぞれ三つを聴き込みつつ素早く手を加えて微調整し、AIに確認のメールを書かせて各依頼主に送り返す。
初回依頼は五千円。三件で一万五千円。実働は一時間もかかっていない。闇バイトに応募して、家主を殴って一万ちょっとしか手に入れられない挙句、捕まって懲役刑を言い渡される強盗犯が世の中に溢れているという現実が、kには信じられなかった。
「こんなんでも恵まれてるほうだよな」
独り零して、またベッドに逃れて眠りに就く。
父の葬儀を終えた夕方、遺品整理をしたいから実家に寄ってほしい、と母に言われた。
「一日ぐらい空けれるでしょう」
疲れたように微笑む母の声は、それでも憑き物が溶け落ちたかのように穏やかだった。
「ああ、うん」
kは久しぶりに声らしい声を発した。生きている母を見て、生きている父を最後に見たのはいつのことだっただろう、と思った。
今この瞬間までの記憶がなかった。訃報を受けたのも、電車に乗って実家へ駆け付けたのも、葬儀に参列したのも、水面に揺らめく陽の光を眺めているような心地でしか思い出されなかった。
実家に帰ると、もうあらかた父の私物は形見分けやら断捨離に向けて選別が済んでいた。父の寝室は小奇麗に掃除されていて、そこから持ち出された書籍や釣り道具や鞄や背広なんかがリビングに、持っていきたい物があればご自由に、という感じで並べられていた。
「母さん一人でやったの?」
「ええ、もともと物持たない人だったし、そんなに大変じゃなかったわよ」
「そう」
「本棚とかパソコンとか、重たいものはまだ部屋に残してあるから、あとで運ぶの手伝ってちょうだい」
「うん」
kはリビングをざっと見回して、持っておいて損はないだろう、と思った背広と鞄だけもらうことにした。
夜、ギターの音で目が覚めた。
いつの間にやら寝ていたらしい。身体を起こすと子供部屋で、kは弟のベッドに横たわっていた。
腹は満たされている。何かを食べたようだ。それは久々な感覚で、美味しいものを口にしたらしいということが窺えた。
子供部屋のドアを開けると、演奏が鮮明になった。母が弾き語っているようで、それなりに形になっていることにkは驚いた。
「迷子って気付いていたって気付かないフリをした~」
階段を降りると、その足音を聞いてか、Cadd9の音色が止まった。リビングに顔を覗かせると、母は「あ~」と余韻を引き延ばしたままこちらを見遣って、ふっと目を細めた。
「ギター始めたんだ」
「もう十年以上やってるわよ」
「あ、そう」
この家を出てもう十四、五年経つのか、とkは今更ながら愕然とした。
「様になってんじゃん」
「そう?」
まんざらでもないような調子で、母はまたアルペジオを奏で始める。少しぎこちないけれど、ひと編みふた編みと丁寧に紡がれる柔らかい音の糸からは粒々と光るものが香った。
「うん、才能あると思う」
「今から磨くには、ちょっと遅過ぎかしらね」
「どうだろうね。無責任なことは言えないけど、頑張り次第かな」
「冷徹ね」
母はそう言うと、口を「お」の形にして竦んだ。お父さんに似て、と言いそうになったのをギリギリで思い止まったかのように見えた。
「まぁ、楽しくやれればいいんじゃない?」
「それはそうね」
こんな何でもない会話を、あまり好きではない母としているのが信じられなかった。
悪い気もしなかった。
「明日の朝には帰るから」
「うん。おとうさんの四十九日はこっちでやっておくわ」
四十九日に、遺族は何をするのだったか。納骨して、知人を集めて会食か何かを催すのだったか。
「・・・・・・いや、連絡してよ」
深く考えずに、面倒だな、と思いながらkは答えた。
「そう?」
「うん」
沈黙が怖くて母に背を向け、意味もなく冷蔵庫を開けて、閉める。
「来年、定年だっけ?」
kが訊くと、背後で演奏が止まった。
「そうだけど、まだ働かなきゃかもねぇ」
「そうなの」
「うーん、年金足りないし。まぁ、あんたが六十になるころよりかはあるんだろうけど」
「別に、どうでもいいよ。おれが六十になるころには、人生百二十年時代になってると思うし」
冷蔵庫に掛かるカレンダーを眺めながら、kはぼんやりと答える。母は土日にもぽつぽつと職場に駆り出されているようだ。先月は月に四日しか休みが入っていない。
「そうかもね。そう考えれば、まだ折り返しだもんね」
あっけらかんと笑う母の声は、まったく疲れているようには聞こえなかった。ただ、疲れ切った先にいる人の声なのだろうな、とも思ったし、自分にはまだ出せない種類の声だなとも。
「子どもの世代は―――」
「え? あんた子供いるの?」
「いや、そうじゃなくて。もう生まれてきている、母さんの孫世代ってこと」
「ああ・・・・・・そう、そっち」
「令和の子供たちは人生百五十年時代かもなぁって」
「・・・・・・嫌ね。そんなに長生きするなんて」
「どうかな。彼らなりにうまく切り抜けてほしいけどね」
「子どもができたら報告ぐらいしなさいよ」
「するけど、期待しても無駄だよ。なるようにしかならないね」
「そんなことは解ってるわよ」
母は欠伸を噛み殺すようにして言った。
「寝るよ」
「母さんも」
「じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
起きると、昼近くになっていた。
葬儀が骨身に応えたのかもしれない。他人と話すのも疲れたし、あんなに大勢の人間が犇めく空間で過ごしたのも、思えば高校以来かもしれなかった。
枕元のスマホを掴んでベッドを脱け出す。リビングへ出ると、母はいなかった。昨晩弾いていたアコースティックギターが、壁際のスタンドに静かに立て掛けられている。
ダイニングテーブルに、ルーズリーフの置手紙があった。
『先に出てます。どうせ家の鍵持ってないだろうから、おとうさんが使ってたやつ置いておきます。背広はクリーニングに出してから送るので、まだ持っていかないでください。 母』
その“ママは何でも知っている”風の口調が、kはあまり好きではなかった。実際、実家の鍵は持ってはいなかったが。
机の端に転がっていたペンに手を伸ばし、メッセージの下に返事を残しておく。
『年末年始は帰ります 慧』
鍵をひったくるようにポケットに入れ、kは自分の荷物の他に父の鞄を手に提げて外へ出た。ほんの僅かに残る夏のにおいを一息に攫うような鋭い風が、南東方向を刺して吹きすさんでいた。
自宅に戻るころには陽は低く傾きかけていて、背負った荷物の重さに息が上がっていた。
照明と暖房を点けて、荷物を雑然と下ろす。手が悴むせいか、ポケットの中でスマホの指紋センサーに人差し指をかざしても、認証失敗を告げるバイブレーションが返ってくるばかりだった。
舌打ちをして、パスコードを打ち込む。
19960211。ロックを外して、ホーム画面に移る。
見慣れないホーム画面だった。ボイスレコーダーのアプリだけが、空っぽの液晶画面の右下にぽつりと置かれている。
kはキツネに摘ままれたようにスマホを目線の高さに持ってきた。すると、視界の奥に別のスマホが見えた。スタンディングデスクに放置されている。そっちが、見紛いようもなく自分のスマホだった。
では、自分のとおなじパスコードで開いたこれは、いったい―――
親指がボイスレコーダーのアイコンに触れた。
まず、バージョンアップデートの通知が表示された。息を整えて、困惑した思考を据え置くように“あとで”を押す。
すると、三秒ほどのデータローディングを挟んだのち、『マイレコーディング』のボックスに大量のMP3ファイルが現れた。
日付順に並べ直すと、最新の録音は五年も前のものだった。それをタップして、音声を再生する。
アルペジオが流れだす。アコースティックギターの音色。昨晩母が弾いていた旋律だ。
でも、母よりも滑らかで、深みがある。
「状況はどうだい。僕は僕に尋ねる―――」
歌声が聞こえてくる。母に似て、優しい、ほの温かい声が。
「旅の始まりを~今も、思い出せるかい―――」
弟のベッドの枕元に置いてあったのは、弟のスマートフォンだった。
弟には歌の才能があった。
そして、詩の背景を痛いほど鮮明に汲み取れる天才だった。それは、kが好き好んで物を分解する少年だったころから、確信を越えた事実だった。
「君を失ったこの世界で、僕は何を求め続ける―――」
弟の声がする。幻聴ではなく、弟の声が聞こえてくる。
こういう名付けようのない感情が吹き荒れたとき、人の多くは脳裏に舞い上がった古い鏡の破片に記憶の景色を見るのかもしれない。何気ない会話の一部始終だったり、仕草や、横顔や、一瞬の沈黙なんかを思い出すのだろう。
でも、こんなときでさえ、kは弟がどんな顔をしていたのか、どんな声で笑うのか、どんなふうに歩いていたのか、何ひとつ思い出せなかった。精一杯背伸びをして遠い昔に眼を凝らそうにも、視界はあまりにも分厚い塵煙に塗れていて、水面を隔てているかのように揺らいでいるのだった。
弟はこの曲が好きだったのだろうか。
好きだったのだろう。ボックスには、これと同じ曲のタイトルが付けられたファイルが何個も収録されている。練習しようと意気込んでいたのではなく、呼吸のように口遊んでいたのかもしれない。
でも、ボイスレコーダーで本当に良かった。彼がどんな顔をしてこれを歌っていたのかを、kはあまり知りたくはなかった。
曲が終わると、最初のイントロがまた流れ出した。
無意識にループ再生にしていたらしい。放心していた身体から大きく息を吐いて、kは音楽を止めた。
顔を上げて、パソコンの前に立つ。真っ黒な画面に、白い明かりに照らされた自分が映る。
三十代へ邁進する、父に似た男と目が合った。