職業:文章添削士。添削は、嫌いだった。
「文章添削士」という資格を使って活動している。「何それ?」と思った方も多いだろう。資格を発行する団体は「文章、とくに小論文など論理的な文章を指導する能力を有する専門家」と定義している。平たく言えば、小論文の先生のようなものだ。
だが、元々「添削」は嫌いだった。塾講師の仕事を始めた頃も、「添削」はあまり気が乗らない業務だった。ではなぜ、「文章添削士」に?
「添削」への見方を変えるできごとがあったからだ。
添削なんて、大嫌いだ
添削を受けるのは嫌いだった。
10代が終わる頃、私はとある国立大を志望して予備校に通っていた。志望校の入試には論述問題が多くあったので、予備校の添削サービスを大いに活用しようと思っていた。ところが、返ってきた答案を見て、やる気がそがれてしまった。
大きくバツ印だけが書かれた英作文の答案。片隅に延々とダメ出しが書かれているだけで、どうすればいいのかわからない日本史論述の答案。なんだよ、とため息をつく。提出必須の答案を除き、添削サービスを利用しなくなった。
練習をサボった因果は当然に巡ってくる。結局、論述ばかりの第一志望にも、小論文がある第二志望にも合格せず、第三志望の大学に進んだ。
添削なんて、大嫌いだ。あの頃は、そう思っていた。
「文章添削士」との出会い
大学を出た後、色々あって、地元の進学塾に勤め始めた。メインの仕事は、高校入試対策の授業と、英検対策講座。業務のひとつとして、英作文の添削をしなければならない。
生徒だった頃に添削された経験をもとに、自己流でやるしかなかった。できる限りのことはしていたが、「これでいいのか?」という不安が常にあった。
添削の仕方を体系的に学ぶ方法はないだろうか。そう考えていたところに、偶然、ある広告を見つけた。
「文章添削士養成講座」
文章添削の資格があるらしい。しかも、文章添削についてのセミナーと講座の説明会を、無料でやっているという。
行くしかないでしょ。即、一番近い日程のセミナー&説明会を予約した。
説明会で主宰者が言う。添削は「支援」である。生徒に、書き直してみよう、という気にさせる添削こそ良い添削なのだと。衝撃だった。
私は勝手にひねくれて、変な思い込みをしていたらしい。元の答案よりも多いくらいの文字数で指摘を書き込むことこそ良い添削であり、試験で出る問題をズバリと的中させる人こそ優れた講師だと思っていた。自分にそんな「指導」はできない、と勝手に諦めていた。
だが、そもそも前提が間違っていた。添削は「支援」なのだ。
説明が終わった後、講座についての案内があった。なんと、その日の夜から始まる講座に1席空きがあるらしい。
行くしかないでしょ。即、申し込みをした。
「支援」としての添削
講座では、文章添削に関する様々な知識やノウハウを学んだ。そのひとつが、「赤と青の2色のペンで添削をする」というもの。表現に関することは赤、内容に関することは青で書き込む。
そして、添削の書き込みは、青ペンでその答案の「良い点」を書くところから始まる。
つまり、まず添削者の意識は「良い点」に行くのだ。
赤ペンで「ダメ出し」をするばかりが添削なのではない。青ペンで「良い点」をほめることも、また添削である。
これを知って、私はとても楽になった。
そもそも、添削は何のためにするのか。大事なのは、生徒にとっての目的(進学、就職、資格取得など)が達成されることだ。添削する側がするべきなのは、生徒が自分で目的を達成できるよう「支援」すること。
だから、「良い点」と「改善するべき点」を両方伝えた上で、「書き直しの方針」を示す。「こうすればもっと良くなるよ」と伝えることで、「よし、書き直してみよう」という気になってもらうのだ。
今では、文章添削士として学んだことを、職場(進学塾)で活かしている。私が職場で添削するのは小論文ではなく英作文である。しかし、「ダメ出し」ではなく「支援」である、という添削の本質は、小論文でも英作文でも同じだ。
それからは、自分の添削に自信をもつことができるようになった。具体的なことをここに書くことはできないが、私が英作文の添削を担当した生徒たちは、英作文を武器にできるようになってきている。
今であれば、確信をもって言える。添削は、学習者を「支援」できる希望の営みだ。
添削は、希望の営みだ
赤ペンと青ペンを携え、学習者のより良い文章作成を支援する。そんな「支援」としての添削を、さらに広めていく。
その企てに加わる仲間が、もっと増えてほしい。
添削という営みに、いま私は大きな希望を抱いている。
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