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教科の生徒に推しを習う ー学び合いのラポール形成

「とにかく、本っ当に名作なんです。タイトルの意味だけじゃなくて、ちゃんと中身を調べてきてください!」
 呆気にとられた。こんなに声を張れる人だったんだ。受け持って半年、そんな一面は見たことがなかった。
 「事件」は春期講習の授業後に起こった。その日は英作文(お題は“What do you do in your free time?”)の添削答案を返却し、クラス全体に向けて解説をした。うち一人はアニメが好きらしく、覚えたての For example, を使って、好きな作品のタイトルを書き連ねていた。“The Seven Deadly Sins”(『七つの大罪』)。be動詞と一般動詞の混同には気づけなくても、好きな作品の英題はプライドを懸けて調べてきたのだろう。私は寡聞にしてその作品(原作は少年誌の漫画らしい)を知らず、「七つの大罪」って元はキリスト教の話でね、といかにも『説教したがる男たち』(注1)のような振る舞いをしてしまった。その直後に答案の作者からぶつけられたのが、冒頭の一言だった。
 怒られたうえに業務外の「宿題」まで発生したが、生徒の新たな一面を知れたことに、私はむしろ喜んでいた。

(注1)レベッカ・ソルニット(ハーン小路恭子訳)『説教したがる男たち(Men Explain Things to Me)』(左右社、2018年)。知識をひけらかし「説教」したがる男性たちの振る舞いについて事例と考察が記されている。

1 教科の生徒は推しの先生

「石崎洋司さん。先生、知らないんですか? 『黒魔女さんが通る!!』が有名で…」
 生徒の流暢な説明に耳を傾けながら、手帳にシャーペンを走らせる。教室にいるのは、中学校入学を目前に控えた小学6年生。ローマ字の復習として、好きな人名や地名を3つノートに書いてくる宿題。次々と知らない固有名詞が出され、手元にはメモ書きが増えていくばかり。「青い鳥文庫」の名を聞くのも、遠い昔に「クレヨン王国」の話(注2)を読んで以来だ。どんな話なの? と発言者に問いかける。

(注2)福永令三(作)・三木由記子(絵)『クレヨン王国の十二か月』(講談社青い鳥文庫、1980年)。シリーズ化されている。

「主人公は小学生の女の子で、白魔女を呼び出そうとするんです。でも花粉症で呪文がうまく言えなくて、黒魔女を呼び出してしまって…」
 驚きはさらに増す。映画の予告編を観ているような、本屋で立ち読みをしているような。勧める相手をその作品に惹き込む、なんて巧みなストーリーテリングなんだろう。後日、地元図書館の児童書コーナーで(大人気なく)『黒魔女さん』シリーズを数冊借りる。読む。面白い。2巻目。面白い。ああでも、教材研究もしなくては。仕方ない、1日に1冊までの自分ルールを課そう。
 数冊読み終えたのち、授業を受け持った日の休み時間、本人に簡単な感想を伝える。一瞬驚いた表情をし、前にも増して饒舌に色々と語ってくれる。
「青い鳥文庫には、他にもこんな作品があって…」
 また課題図書が増えてしまった。帰宅後にKindleを開き、『若おかみは小学生!』(注3)の電子版をダウンロードする。こうして生徒に推しを習う「推し追い」の対象作品が増えていく。おかげで読む小説には困らないし、最近のアニメにも触れるようになった。

(注3)令丈ヒロ子(作)亜沙美(絵)『若おかみは小学生!』(講談社青い鳥文庫、2003年)。アニメ化・映画化もされた大部のシリーズ作品。

2 学び合う関係づくり

 塾講師や家庭教師のように、教科の勉強だけで子どもと関わる教育職は、ある意味楽(に見える)かもしれない。端的に言えば、教科学習でのみ関わる存在だからだ。その教科学習も、テスト学力と説明するスキルがそれなりにあれば、一応授業の体はなす。時に努力不足を指摘し、時に「勉強すれば将来の選択肢が広がるから」などと言って動機づける。そんな「アメとムチ」の言葉を定期的に織り交ぜれば、一定のコミュニケーションにはなる。月謝と教科知識の等価交換。ドライに割り切った関係をお互いが望むなら、それで十分だ。
 しかし、一切の無駄なく学習を進められるほど勤勉ならば、何も月謝を払ってまで通う「教室」を増やす必要はない。個々のニーズに応じた参考書はいくらでも出ているし、近年は映像コンテンツの進歩も著しい。それでもなお自室ではない、しかも勉強に特化した場所に足を運ぶのは、そこでしか得られないものを求めているからだ(注4)。ここでしか聞けない話。ここでなら見せていい自分。「教室」に通う生徒は、顕在的であれ潜在的であれ、意識のどこかで「居場所」を求めている。個別や少人数など、クラスの枠が狭くなるほどその傾向は強い。

(注4)当然「通わせられている」場合も多い。きっかけが何であれ、成果の如何は本人の努力と周囲の働きかけ次第である。

 よく、「言葉は『何を言うか』よりも『誰が言うか』が重要だ」と言われる。生徒の立場で想像してみれば、あまり関係性もできていないのに、通り一遍の知識やお説教を繰り返されても、大して響かないだろう。家や学校とは違う場所を、ナナメの大人を、彼/女らは求めている。だからこそ、自分の推しに「先生」が理解を示してくれたとき、その目は輝き、教科知識の発問とは比べ物にならないほど饒舌になる。「先生」なのにそんなことも知らないんですか? と一転、机に向かっている側が「先生」になる。
 前に立っている人なんて、教科知識と年齢がいくらか上回っている『先に生まれただけの僕』(注5)にすぎない。自分たちの世代、自分自身の好きなものに関しては、子どもの方がよほど「専門家」である。

(注5)2017年に放映された日本テレビ系列の連続ドラマ。商社から転職した若手の校長が中心となり、私立学校を改革する話。

3 ナナメの支援者になる

 月謝の対価として教科知識を伝える、という職責は果たしつつも、時に「専門家」に教えを請う姿勢は、教科教育の場面だけ切り取っても重要になる。私自身が中高生だった時代でいえば、携帯電話は専ら「ガラケー」、SNSは一部の友人がmixiをやっている程度。ゲームやYouTubeのコンテンツも今ほど充実していなかった。調子に乗って使いすぎると、通信制限で難儀するか高額の請求が来て親に怒られるのがオチだった。
 今や私と10歳しか違わない中学生ですら、環境は激変している。大半がスマホを所持し、wifiをつなげば短い動画も長い映画も見放題、ゲームもしたい放題。本屋に行かなくても、無料で面白い読み物はいくらでもある。何より、そうした情報環境を準備してきたのは大人だ。この文脈を踏まえず、単に「スマホばかり見ていないで本を読め、勉強しろ」と説教しても、恐らく響かない。彼/女らが置かれた環境、そのなかで培われた嗜好や価値観を理解した上で、ではどうやって学んでもらおうかと考え、働きかける。そうした地道なやり取りのなかで、学び合いのラポールは形成されていく。
 それに、子どもを主な対象としたコンテンツだからといって、「そんなものばかりに時間を使っていないで」とは簡単に言えない。ゲーム、マンガ、アニメ、ドラマ、映画。ものによっては大人の方が「ガチ勢」だったりする。とっくに卒業したはずの猫型ロボットの物語がCGになって蘇り、多くの大人が「ドラ泣き」した(映画『STAND BY ME ドラえもん』、2014年)のは記憶に新しい。教条的な訓話は浅く陳腐だが、練り上げられた虚構は時に世代を超えて人の心を揺さぶる。
 何が役に立ち、何が無駄なのかは、後から振り返って初めて分かることだ。他者の評価や周囲の流行にいつも流されるのではなく、時に世間の喧騒から離れて自分の推しに没入する。そんな「ひとりあそび」の価値を認められる大人の一人になれたら、と思っている。

https://slowinternet.jp/article/going-solo01/

 夕飯を食べながらテレビをつけ、今日の「推し追い」活動を始める。生徒に勧められた連ドラ、『アンサング・シンデレラ』(注6)。主人公の薬剤師は、自分のポリシー(患者に寄り添う)を貫こうとするあまり、度々軋轢を生む。関係者との対立による業務の停滞は、時に患者の不利益にもつながる。落ち込む主人公を、新人時代からの教育係がたしなめる。

「自分がやりたいことじゃなくて、相手がしてほしいことをしろよ」

 学習支援者として、今の自分はそんな実践ができているのだろうか。夕飯を片付けシャワーを浴びながら、自分に問いかけていた。
 教科の生徒は、推しの先生。今日は何を学び合えるのだろう。日々楽しみは尽きない。

(注6)フジテレビ系列の連続ドラマ。2020年7月より放送開始。原作は荒井ママレ『アンサングシンデレラ 病院薬剤師葵みどり』(ゼノンコミックス)。

より良き〈支援者〉を目指して学び続けます。サポートをいただければ嬉しいです!