感性的所与を生み出せる場を作ろう

―なぜ歴史の教訓から学ばないのか―”

はじめに
表題に用いた「所与(しょよ)」という言葉は、広辞苑で引くと、「与えられること。」「与えられるそのもの。」とある。哲学的には、「思惟(考えること)によって加工されない直接的な意識内容をいう。」と定義されている。この哲学的定義は、幼児化した現代人の頭では全く理解できないだろう。中国で発明された漢字は字体そのものに深い意味が込められていて、知性ではなく感性で感じ取らなければならない。
ところが、英語という言語は、単なるアルファベットの順列組合せで、「与える」を日英辞書で引くと、give、afford、presentなど十種類以上の単語が出て来るが、それぞれの単語の使い方に制限はあるものの単語そのものの字体から感性で感じ取るものはない。
昔の寺子屋教育では、論語をはじめ四書五経を暗記させられた。子供たちにとって、はじめは何のことかさっぱりわからないが、本来備え持っている感性に言霊となって浸透していくのではないかと考えられる。我国では、子供を幼児として区別するのではなく大人と同等に扱う教育がなされていたのである。ところが、戦後になるとモンテソリーやフレーベルなど、西欧の幼児教育の幼稚な思想が西欧かぶれの軽薄な教育者たちによって採り入れられ、幼稚園から大学、老人ホームに至るまで「チーチーパッパ」の教育一色になってしまった。

□なぜ歴史の教訓から学ばないのか
これまでの歴史で、四大文明の興ったところは、その背景に豊饒な自然の恵みがあり、その恩恵で繁栄し、それを使い尽くしてその文明は滅亡している。これらの文明は、地球規模で見ればいずれも地域的な文明に過ぎなかったが故に、四大文明の滅亡という歴史の教訓を次の文明に伝えることが出来なかったのであろう。それらの文明が残した傷跡は今日も延々として残り、子孫は苦難な環境での生活を強いられている。
しかし、近代文明は地球規模にまで広がった文明である。もし、近代文明がこれまでの文明と全く同じ道をたどるのであれば、地球全体の滅亡につながるのは自明の理である。今日の我々人類は、これまでの歴史的蓄積と自然科学の発達のおかげで地球全体を俯瞰できる広い視野を獲得したのである。それにもかかわらず、自然環境の破壊が文明を滅亡させてきたという歴史の教訓を何故学ぼうとしないのだろうか。人間は生得として歴史の教訓を受け付けない生き物なのだろうか。
勿論例外として、例えばボルネオ島の原住民やオーストラリアのアボリジニー、アメリカインデアン、アフリカのピグミーのように自然との共生の下に生活する少数の人々は存在するが、これらの人々は最大の集合体でも部族単位で国家という形態はとらない。こうしてみると、自然環境との共生、調和からはみ出すのは、常に国家という形態を人間が作り上げた時点で始まると考えてよさそうである。
これまで、歴史上栄枯盛衰を繰り返してきた国家形成の要因はいろいろあり、文明、文化の形態も異なるが、共通しているのは支配と被支配、権力と被権力の二極化であり、“人は遍く平等である”という権威のもとに国家が作られた例は皆無といってよいだろう。
何故、人類は長い歴史の中で“自然との共生と調和”という枠組み(パラダイム)を唯一の権威として認め、叡智を持って国づくりが出来なかったのだろうか。(続く)2020/03/29

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野村隆哉
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