名を求めない命の繋がりと、今はまだ名前のない希望『リバーエンド・カフェ』
【レビュアー/小野田 峻】
生と死の境界があいまいになっている。
震災時に司法修習生として岩手にいて、半年後に東京に戻って弁護士となったあとも、2012年から定期的に津波被災地を訪問させていただく中でしばらくはそう感じた。
それは決して、生者と死者の垣根が低くなっているという意味ではなく、なかなか言葉に表現しにくいのだけれど、生者の世界の色と死者の世界の色が混ざりあっているような、今の「生」といつかの「死」をみんなで緩やかに共有しているような、そんな感覚に近かった。
2013年3月11日に初版が出版された、いとうせいこうさんの「想像ラジオ」は、この感覚をさすがにうまく捉えていて、当時、喪失のただ中にいる人の心にじんわりと、一時の平穏をもたらしたのだろうと思う。
それはきっと、この本が繰り返し、読者に向かってこう語っていたからではないか。僕たちはあのとき、前を向くのが早すぎたんだと。
海は、私たちにとって、与えてくれる存在であると同時に、奪う存在でもある。
そりゃあ誰だって、奪われたくはない。たった「1」でも、「0」とは全く意味が違う。
「もうあの人はいない。」という意味の「0」を、無駄だとわかっていても、夜毎「1」に戻したいと酒をあおりながら願う営みも、
災害が起こるたびにカウントされる数字を見ながら、困難だとわかっていても、「あの悲しみをもう二度と誰にも味わって欲しくない」と、その数字を「0」にしようと試みる営みも、
全て生者の願いであることには変わりない。
けれど、少なくとも、その願いの外側にいる人間が、与えられることと奪われることを、一方的に切り離してしまって良いのだろうか。
寄せては返す波の前で私たちがそうであるように、生きるということは、ときに死に近寄り、ときに死から遠ざかる、そうやって曖昧な「私」と付き合っていくということではないか。
壁を作り、塞いでしまうのではなく。
線を引き、幸と不幸を分けるのではなく。
『リバーエンド・カフェ』で、繋いでいくことの尊さを想う
震災後の宮城県石巻市、北上川の中瀬にある「リバーエンド・カフェ」でのを日常(と非日常)を、オムニバス形式(基本的には1話完結)で丁寧に描いている漫画『リバーエンド・カフェ』はまさに、そうした、「人間」と「それ以外」と「いずれでもないもの」が、生者の世界の色と死者の世界の色とが混ざりあった時間の中で、今の「生」といつかの「死」を緩やかに共有しているという、漫画でこそ表現できるあいまいさを描いている物語だ。
『リバーエンド・カフェ』では、決定的なことはすでに物語以前に起こってしまっていて、その後何かが起こるようで、何も起こらない。
誰かが「主人公」というわけでも、ひとまずはない。
むしろ、世間的には名もなき人と呼ばれるような、というよりむしろ、 ”名を求めない”人々が数多く顔を出し、言葉では表現し難い絶妙美味なマスターのコーヒーを飲む。“名を求めない”彼らの営みはどれも、世間にとって価値があるか否かとは無関係に、その土地固有の時間の流れと共にあり、一朝一夕で誰かが真似できるものではない(マスターのコーヒーの味も)。だからこそかえって、その土地でこそ価値になる 。
私自身 、東北や熊本、 広島など、被災地を継続的に訪問し続ける中で、誰も真似できないような活動を続ける名を求めない人たちに数多く出会ってきたし、何より、彼らのような存在とその周囲の繋がりがあったからこそ、この国の被災地は何とか支えられてきたのだと、何度も唸らされた。
功成り名を遂げることが目的ではない彼らは、一時役割を引き受けても、しばらくするとまた自分たちの居場所に戻っていく。
他方で、「国」単位での歴史で見てみれば、人は基本的に同じ過ちを繰り返すし、元に戻る。繋がっているようで、繋がっていない。
少なくとも、すでにこの星にいない命のバトンをなかなか受け取ろうとしないし、まだこの星に生まれていない命にバトンを渡すことも意識していないように見える。不毛な椅子取りゲームをやめることの怖れをみんなで一斉に乗り越えるというのは、なかなかに無理ゲーのようだ。同じタイミングでこの星にいる命同士で競い合い、争い続けることに忙しい。
結局、生と死の間にいるあいまいな私たちが、もっと大きな何かに虐げられないためには、「人」という存在を切り離したところには、本来決して「お金」も「力」も存在しないということを、いかにみなで共有し続けていくかという、その営みのトライアンドエラーが重要なのだろうと、『リバーエンド・カフェ』を読んでいてあらためて想いを馳せた。
孤独が繋げた女子高生とブルース歌手ベッシー・スミス
3巻第27 話「BESSIE SMITH」では、震災で両親を亡くした女子高生・入江サキ(作中、彼女の名前だけが繰り返しフルネームで出てくる)が、時を超えて、 実在したブルースの女王ベッシー・スミスと繋がる。そのベッシー・スミスについては、こんな話が残っている。最近でも「Black Lives Matter」が掲げられた抗議デモのあった、アメリカ社会に深刻な影を落とす人種差別に関する話だ。
「ブルースの女王、ベッシー・スミスの死
ベッシー・スミスは1920年〜30年代にわたって全盛を誇ったブルース歌手だ。 彼女はジャズ ・シンガーという言葉さえもあまり知られていなかった時代にブルース歌手と呼ばれたが、ビリー・ホリデイなど後出の多くのジャズ・ヴォーカリストたちに大きな影響を与えた。(中略)彼女が自動車事故で急逝した1937年には、すでに最高の人気を博する歌手として高く認知されていたにもかかわらず、ただ黒人であるという理由だけで、誰の助けも受けられないまま彼女は路上でただ一人死んでいった。息も絶え絶えに助けてほしいと懇願したベッシ ー・スミスを、 救急車は救護することもなく来た道をそのまま引き返していったのだった。」
『Jazz It Up! マンガまるごとジャズ100年史』(南武成/加藤祐子/ 鈴木眞由美/講談社)51頁より引用
思えば、ジャズの歴史は、紛れもなく「人」が繋いだ歴史で、命の発露そのもののバトンの歴史だ。たった一つの命が、たとえ突然終わってしまっても、誰かがその想いを受け継ぐ。
作中、ニューオリンズの街角で、津波で甚大な被害を受けたISHINOMAKIで育った入江サキが歌うベッシ ー・スミスの曲を聴き、さらに彼女が震災当時7歳だったことを知った老人が、「そうか…そういうことか」と呟いたあと、隣に座る孫の質問にこう答える。
「この世界は この世界は...BLUESに満ちている。」
孤独の悲しみを歌ったBLUESが、 ベッシー・スミスの生きた証と入江サキの傷ついた心を繋いだなら、私たちのこの世界は、その悲しみの代わりにいったい何で満たされていれば、過去の色と未来の色が、誰にも虐げられずに混じり合うのだろう。
2011年3月11日。あの日、津波が襲った地域の子供たちが、その場所で何を思い、何を感じたか。そして今、何を見つめ、どのような「言葉」を持ち得ているか。そんな問いに、私を含め、果たしてこの国のどれだけの人が今も思いを巡らせているのだろう。それを考えると、やはり少し不安になる。
けれど同時に、入江サキの「言葉」が、本人さえも気付かぬうちに、身のうちに育ち、歌となってこぼれ出たように、この国の被災地を支えてきた”名を求めない命の繋がりの網”の中にこそ、”今はまだ名前のない希望”が育まれているはずだと、私は信じてやまない。