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雑記①柳田國男とAirpods

柳田國男の『明治大正史 世相編』(講談社学術文庫、1993)に「時代の音」という章がある。まちの音も、人々の生活を写す要素だとして取り上げる。消えていく音があれば、新たに生まれる音もある。生活様式が変われば、社会に響く音もまた変わる。

− ことに人間の新たに作り出したものは、たとえ染色のように計画のあるものではなくとも、とにかく相互いの生活を語り合っている。(…)すなわち音は書くべからざる社会知識であった。(P.56)

でも、まちの音に注意を向けることは少なくなった。皆無と言っていいほどに。耳を覆うAirpodsなどのイヤホン。まちの音ではなく、好みの音楽をふさぎ聞くことが生活様式の一部になった。雑踏はノイズとして忌避され、耳と雑踏の関係は破棄(キャンセル)される。

− 耳を澄ますという機会は、いつの間にか少なくなっていた。過ぎ去ったものの忘れやすいはいうまでもなく、次々と現れてくる音の新しい意味をさえも、空しく聞き流そうとする場合が多くなった。(…)音楽もまたこれら雑音の一切を超脱せんがために、欲求せられる時代となっているがこれによって人の平日の聴感を、遅鈍にする事などは望まれない。(P.56)

新型コロナが人々に不安を恐怖を与える今は、まちから人が失せた。
まず、中国語や韓国語などの外国の言葉がミュートされた。
日本語ばかりが聞こえるようになり、通りには隙間が生まれた。
次に日本語もほとんど聞こえなくなり、人の声はマスクの中に潜めた。
無機質な風景となったまちで、埋もれていた音がドヤ顔を覗かせる。

店舗の間を吹き抜ける風の音、風が運ぶ落ち葉やゴミがみちにこすれる乾いた音、車のエンジンが駆動する轟き、タイヤがアスファルトの道路を踏む音、微かな鳥のさえずり、信号の無機質な機械音、反響し合う音。

2020年4月のまちの音。認知できなくなった音もたくさんある。不規則なまちの音よりも、計画された音楽の方が耳馴染みが深い。
都市計画で管理されたまちで、思い通りにならないまちの音。

人がいなくなったまちのこえが、今日のまちの姿を雄弁に語る。
でも、そのこえに耳を傾ける人はほとんどいない。

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