手書きの熨斗(のし)

母がある人へ御礼のために、ビール券を探し回っていた。私はそれに付き合う感じで、運転手となった。

はじめはスーパーに行き、サービスカウンターで尋ねると、「うちにはないよ。コンビニにあるよ。」と言われ、「コンビニにあるの?」と2人で顔を突き合わせた。調べると、確かにコンビニで購入できそうだが、きちんと熨斗(のし)をかけたい母は、コンビニを避け、酒屋に向かった。

そこにはいかにも酒屋っぽい、というと悪口になりそうだが、明るい金髪をしたお姉さんや、坊主でのそっとしていて、頼りなさそうな男性など、5人くらいがそれぞれ元気に「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。田舎で客は少ないけれど、その声だけで活気あふれる、感じのよいお店だと思った。

さっそく母がビール券はあるかと尋ねると、「ご用意できますよ!こちら種類が2つありまして〜」とニコニコ笑顔で答えてくれる。気持ちのよい対応である。もともと、「5千円くらいでいいよね」と話していて、1枚1000円弱のビール券を、5枚買うことになった。

用途は御礼であること、記載する名前を伝えると、どんな感じの仕上がりになるかを説明された。「こちらの白い封筒に印刷して、ビール券を入れる形でよろしいですか?」との問いかけに、母は「うーん」と顔をしかめ、「できたらビール券が入った封筒を包むような形で、熨斗をかけて欲しい」とお願いした。

すると、先ほどまで堂々と接客してくれていたお店の人たちが、急にいそいそと落ち着かなくなった。「このサイズの熨斗あったっけ?」「前に作ったことがある気がするんですよね」「奥にあるか見てきます」などなど、どうやら封筒にかけるサイズの熨斗が、すぐに用意できない状況に焦っているようだった。

すると、1人の方が、カウンター奥の引き出しをスッと引っ張り出し、「あ、これじゃないですか?」と見つけてくれた。サイズ感が封筒に合っているように見える。

しかし、もう1人の方がそれを見て、「でも、このサイズだと印刷できない。手書きでいこう。あの、手書きになってしまいますが、よろしいですか?それとも、ご自分で書かれますか?」と母に尋ねてきた。母はそれまでの接客態度にとても満足していたようで、嫌な顔することなく、「お願いします。」と答えた。

と、ここまでは良いのだが、私は内心、心配していた。ほとんど忘れかけていたが、私もかつて、何かのアルバイトで熨斗に文字を書いたことがあった。筆ペンで、人様の大事なお品物に、「御礼 〇〇」と。

受け取った人は、災難だったと思う。

緊張のあまり、震えて歪んでしまった線、筆の力加減が分からず、太かったり細かったりして、妙に味のある文字。下手くそだってバレるのが嫌で、年賀状だってボールペンで書いていたのに…なぜこんな屈辱を、書く側も受け取る側も味わうようなことを、わざわざせねばならんのか…と。

お渡しの際は、顔をあげられまい。いつまでも頭を下げて、なんて丁寧な店員だろうと思われたかも。でも、袋から出してみたら、ガッカリしただろうな。そういうことか、と。苦い思い出である。

話は戻って。

「お母さん、本当にいいの?自分でも書けるって。それなら先に言ったほうがいいんじゃない?」と、店員さんに気を遣ったつもりで、コソコソと母に伝えた。母は私とは違い、字が綺麗である。何に対しても妥協がない母は、文字にもその精神が表れている。

店員さんの文字がそうでないと決めつけている私は、なかなか性格悪いな、とも思うけど、こればっかりは見たことがないから、要するに賭けなのだ。こんなことに賭けるくらいなら、はじめから綺麗だと分かっている母の文字の方が、失敗がないと思ったのだ。受け取る相手だって、綺麗な文字の方が気分が良いだろう。正式な場面に、芸術は必要ない。苦い経験をした先輩からの、いらんアドバイスである。

話し終わらないうちに、チラっとカウンターの方に目をやると、なんと店員さんはすでに書き始めていた。さすが、感じの良い店の店員さんというのは、仕事も早いのだ。「もう書いてくれてるね。」と、母は嬉しそうに会計をお願いしている。私は変に力の抜けた、声にならないような声で「あぁ」と呟いた。

そして出来立てほやほやの熨斗のかかったビール券を受け取ると、私はやはり、ガッカリしたのであった。母はというと、「ありがとうございました」と丁寧に挨拶し、お店を出て車に乗った後で、「下手くそ」と言った。でも、「一生懸命対応してくれて、いいお店だった。」と、嬉しそうにしていた。

まるでお相撲さんのように太った愛嬌さえ感じられる「御礼」の文字は、慣れない筆ペンで一生懸命書いてくれた、店員さんの温かい気持ちが表れていた。渡す相手にそれがどう映るのかは分からないけれど、少なくとも母と私にとっては、これで良かったのである。

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