アーサー・ミラーをめぐる翻訳の話(後編)
「戯曲翻訳(の話)をしよう」④ アーサー・ミラー編
髙田曜子さん、広田敦郎さんに聞きました!
2022年上半期、アーサー・ミラーを回顧するかのように上演された3つの公演が、それぞれ素晴らしい成果を上げました。
『THE PRICE』(劇壇ガルバ)翻訳:髙田曜子
『セールスマン死』(PARCOステージ)翻訳:広田敦郎 演出家通訳:髙田(時田)曜子)
『みんな我が子』(Bunkamuraシアターコクーン)翻訳:広田敦郎 演出家通訳:髙田(時田)曜子
これらの作品の翻訳や演出家通訳として関わった広田さん、曜子さんのお二人に、数回にわたってLINEであれこれ聞きました。膨大なおしゃべりになりましたが、関心を寄せてくださる皆さんと共有したいと思います。今回はその後編です。よろしければお付き合いください。
キウチ「曜子さん、広田さん、あらためましてお疲れさまでした。アーサー・ミラーに長く関わったお二人にとって、ここまで特別な季節だったのではないでしょうか?ここからは『みんな我が子』の話を中心に、広田さんに翻訳のことを、そして翻訳台本と演出家と稽古場を支えてきた通訳の曜子さんに創作プロセスについてお話をうかがいます。」
演出家リンゼイ・ポズナーさんの稽古場はこんな感じ
曜子「思いつくままに話しますが、演出のリンゼイさんと音楽のかみむら周平さんとの打ち合わせでは、このプロダクションにはどんな楽器の音色があうだろうか、という話から始まり、メロディーがどこまで心情に寄り添うのが良いのか、なんていう話題が印象的でした。稽古をある程度重ねてからの打ち合わせで、リンゼイさんが、テキストが十分に力強く、感情や心情をもう十分に表現しているから、音楽でそれをしなくていいと思う、とおっしゃって。周平さんもそれに大賛成され、今回のような音楽が生まれました。」
キウチ「良い結果を生むための理想的なプロセスですね。劇中で音楽が使われた箇所は限られていましたが、とても印象的でした。前回、広田さんが仰ったように、終幕とはまったく無縁の ‘長閑さ’ すら感じる幕開けでした。」
広田「僕の ’アーサー・ミラー・ジャーニー’ は、1999年にベニサン・ピットで上演された『橋からの眺め』※(故ロバート・アラン・アッカーマン※演出:tpt)から始まってるんですよね。まだ一本も翻訳をしたことがなかったころです。演出部をしながら留置所の台詞のない警官役でも出ていました。今回リンゼイ・ポズナーさんはディテールにとことんこだわることを信じて芝居をつくっているとおっしゃっていましたが、僕がこの10年で一緒に仕事をした外国人演出家のなかで、稽古時間の使い方がボブさん(ロバート・アラン・アッカーマン)にいちばん近いタイプのように感じました。」
※ロバート・アラン・アッカーマン(1944年6月30日 - 2022年1月10日)
アメリカ出身の演出家、映画監督。ニューヨーク、ロンドンをはじめ世界の演劇シーンで活躍。リチャード・ギア、スーザン・サランドン、ショーン・ペン、ケビン・ベーコン、バル・キルマー 、アル・パチーノ、リチャード・チャンバレン、メリル・ストリープ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレン、アン・バンクロフトらの主演舞台を演出。tpt(シアタープロジェクト・東京)の招きで来日し、ベニサン・ピットを拠点に多くの日本人俳優とともに創作を行う。その後、日本で演劇ユニットthe companyを結成。2022年1月逝去。日本での演出作品として、『薔薇の花束の秘密』(主演:佐藤オリエ)、『蜘蛛女のキス』(主演:村井国夫、岡本健一)、『娘に祈りを』(主演:平田満、堤真一、高橋和也、山本亨)、『イサドラ When She Danced』(主演:麻実れい)、『橋からの眺め』(主演:堤真一、久世星佳)、『エンジェルス・イン・アメリカ』、『楡の木陰の欲望』、『三人姉妹』、『バーム・イン・ギリヤド』、『1945』など。
※橋からの眺め(A View from the Bridge)
アーサー・ミラーによる1955年発表の戯曲。イタリア移民としてブルックリンに暮らす波止場荷揚げ人足エディ、妻ビートリス、妻の姪キャサリン18歳。ある日、妻のいとこが2人、イタリアから密航して来る。兄のマルコは32歳、アメリカで稼いで家族を養おうとしていたが10歳若い弟ロドルフォは新生活を求めていた。2人はエディの計らいで荷揚げ人足をすることになったが、キャサリンはロドルフォに恋をし、結婚することに。しかしエディは2人の結婚に反対する。エディは移民局に不法労働者がいると密告し、事件が起こる。
広田「リンゼイさんのディテールへのこだわりというと、稽古前の翻訳ミーティングの時点から本当にそうでした。僕が上げた翻訳の初稿をまず時田さん(曜子さん)に英語にバックトランスレーションしてもらい、台詞のニュアンスやアクションを確認してもらうという段階を経て、上演台本を仕上げました。この作業は稽古が始まっても続き、テーブルワークを10日ほど行なって、精度を高めたり、誤りを正したり、あいまいでよくわからないことをみんなで解釈して、より明確な言葉を選んだりしました。僕はときどき思い切りのあまり乱暴にも見えるチョイスをしてしまうことがあるので、こういう作業では本当にヒヤヒヤ、ドキドキするんですけど、同時にとてもありがたく、特に『セールスマンの死』では直感に任せ、割と自由気ままに作業した自覚もあったので、こちらのほうは初心に立ち帰るようなところがありました。」
「あいまいな箇所」へのノートの出しかた
広田「これは日本語話者でない演出家のプロダクションでよくあることなのですが、‘台詞が明瞭に聞こえない箇所を教えて’ と言われていました。なので、特に稽古期間の終盤、通し稽古が始まってからは、毎回気づいたところをリストアップしていました。ところがその大半はすでにリンゼイさん自身がノートを出そう※としていた箇所のリストに入っているんです。俳優さんからも ‘日本語がまったくわからないのに、なぜあんなに的確なノートが出せるの?’ と聞かれたことがあったんですけど、彼は本当にしっかりと芝居を観て、台詞を聴いてるんですね。本当にピンポイントでノートを出してました。明瞭に聞こえないからと言って、’あそこ聞こえるように言って’ みたいな乱暴なノートは出しません。その台詞はなぜ大事なのか、そこ言葉を使って人物は何をしようとしているのかを逐一確認するんです。俳優との作業では俳優に寄り添って俳優の視点に立つことを徹底されていると感じました。」
キウチ「『ノートを出す』というのは、日本語の『ダメ出し』に相当する言葉で、俳優の演技に対する演出家からのフィードバックのことですね。僕自身も外国人演出家の稽古場から学んだことですが、以来、『ダメ出し』という言葉は使いません。俳優に寄り添って俳優の視点に立つには、『ダメ出し』ではなく『ノート=気づきや注釈を与える』という言葉のほうがふさわしいと思います。」
さて、アーサー・ミラーはなにを描いたのか?
キウチ「今、『みんな我が子』の上演舞台を振り返ってみて、アーサー・ミラーはなにを描いたとお感じですか?普通の人たちの話のようでもあり、人物配置はまるでギリシア劇のようでもあると思いました。君臨する王のような夫(父)がいて、その妻がいて、善に生きようとする息子がいて、復讐者がいて、そして占い師がいて。その登場人物たちの関係が、大きなセットとともに劇的に表現されていると思いました。アーサー・ミラーは(例えばチェーホフのように)市井の人を書いたのでしょうか?それとも一見そのように見せかけて、経済発展とともに生活者自身が小経済圏の王になりゆく時代に、生活者の意識の革命を図ろうとしたのか?」
曜子「直感でこたえます。アーサー・ミラーは、きっと、人間を描いていて、人間っていうのが、大きくも小さくもあるんじゃないかな。木内さんからの質問を読んでそんなことを思いました。(全然答えになってないですね・・・)大きな世界の中でちっぽけな愛おしい存在でもあり、同時にその世界を変えることができるし、さらにその世界を広げられるような大きな存在でもあるのかなあと。前にも話題になっていましたが、やっぱり演劇で世界を変えられると信じて書いていた作家さん※だからこそ。」
※「演劇で世界を変えられると信じて書いていた作家」
これについては「戯曲翻訳(の話)をしよう」③ アーサー・ミラー編で詳しく話しています。
キウチ「なるほど。お隣さんの星占いの人(フランク・ルービー)が、人間存在のサイズ感を台詞にしていましたね。チェーホフは小さな人間を、ある意味で神の視点から書いて、その作品を喜劇と呼んだんだと思いますが、ミラーは世界の存亡はその小さな人間のなかにすべてあると考えているように思いました。そして悲劇を書いた。」
広田「アーサー・ミラーは、悲劇というのは王侯貴族や英雄の人生を描いたものだ、だから現代では悲劇は書かれなくなった、という言説を破って、庶民の生活を題材に悲劇を書こうとした人です。ギリシャ、デルポイの神託所の入口には『汝自身を知れ』という言葉が刻まれているそうですが、たとえば『オイディプス王』の主人公は、予言された運命と闘った末、英雄となりますが、やがて自分自身の犯した罪を知り、落とし前をつけます。『みんな我が子』の主人公ジョー・ケラーは戦闘機の部品を製造するビジネスで財をなし、不祥事の罪をビジネスパートナーに押しつけ、家族のためにやったことだと自分に言い聞かせますが、結局息子の死を招いたのは自分自身だと知り、ようやく大きな社会に対して自分が犯した罪を受け入れます。」
小さな人間の物語が大きなスケールで
広田「ジョー・ケラーと妻ケイトの、特に第3幕のシーンを見ていたら、マクベスとマクベス夫人の関係を思い出したんですよね。松岡和子さんが『マクベス』を訳されたとき、マクベス夫妻は一卵性双生児だという言い方をされたのが僕はとても好きなのですが、ジョーとケイトもそういうところがあって、アメリカ中西部の郊外の町に暮らす小さな人間の物語がすごく大きなスケールで描かれているんだなと感じます。一見、ごくありふれた家族のごくありふれた物語みたいに始まった芝居を、最終的にとてつもない悲劇にもっていく手腕がすごいなと思うんです。イプセンが書いたような社会的なリアリズム劇とギリシャ悲劇のハイブリッドみたいな芝居で、それだけですごくエクスペリメンタルな劇作だったんですよね。ミラーのト書きではもっと写実的なセットで演じるように書いてありますけど、今回、ジョーが建てた家を牢獄の壁にも見立てたような閉塞感と、同時に小さな人間の物語を大きく開放するような感じを両方持ち合わせたセットで演じられているので。アーサー・ミラーの実験性がよく現われた上演ではないかなと僕は思います。」
キウチ「『実験性』、または『リアリズム劇とギリシア劇のハイブリッド』ということで言えば、ショーン・ホームズさん演出の『セールスマンの死』でもその解釈が強調されていたと思うのですが、どうでしょうか?」
広田「『セールスマンの死』の稽古でも、ミラーがギリシャ悲劇の枠組みを想像以上に活用しているのを感じました。ウィリー・ローマンも、結局息子が成功しなかったのは、大きな社会で自分を無理に大きく見せようとし、自分のしたことや自分が息子に教えたことのせいだったと認識し、自分でその落とし前をつけます。隣の息子のバーナードは、トロイの滅亡を予言して警告するカッサンドラと同じ役割をになっているとショーンさんは言ってましたね。『セールスマンの死』のほうは、ギリシャ悲劇のような物語をストリントベリの『夢の劇』のようなスタイルを用いて伝える芝居で、PARCO劇場での上演でもそれがよく現われていたと思います。」
※ストリンドベリ(1849年1月22日 - 1912年5月14日)
スウェーデンの劇作家、小説家。風刺小説『赤い部屋』(1879)で文壇に。発表する戯曲は自然主義と言われ、イプセンとともに北欧の代表的作家となる。『父』(1887)、『令嬢ジュリー』(1888)、『債鬼』(1890)、『死の舞踏』(1901)、『夢の劇』(1902)。死に至るまでの4年間を「青い塔」とよばれる建物で孤独のうちに過ごす。晩年には象徴性の強い『幽霊ソナタ』(1907)、韻文劇『大街道』(1909)。日本では大正初期に森鴎外訳『債鬼』『稲妻』などが上演。
『みんな我が子』、そのタイトルのこと
キウチ「タイトルについて聞かせてください。『THE PRICE』にいくつもの意味があったり、『セールスマンの死』には構想時に別のタイトルがあったりしたとうかがいましたが、『みんな我が子』というタイトルにもいくつかの意味があるのではないかと想像します。それは広田さんから、この作品は ’普通の家庭のリアリズム劇とギリシア劇のハイブリッド‘ という言葉をうかがったからなのですが。まず、’All My Sons’ は、神の言葉のような父親の言葉でもありますが、どんな感触がしますか?古典や聖典からの引用だったりするのでしょうか?」
広田「’All My Sons’ は執筆中、’ The Sign of the Archer’ とか’ Morning, Noon and Night’ といったタイトルがついていたようです。前者は『射手座』ですから、ラリーが行方不明になった日の星回りからつけたタイトルでしょう。初期の原稿にそういう台詞があったのでしょうか。やはりギリシャ悲劇を意識したと思われますね。でも結局、書き上がった段階で、‘But I think to him they were all my sons.’(でもあいつに言わせりゃ、みんなわが子だったってこと。)という台詞から ’All My Sons’ というタイトルを抜き出したんだろう、と僕は思っていました。一人一人の人間はどんなに小さな存在でも、誰もが外の大きな世界に対する責任を負っている、というメッセージだと思います。」
広田「ユダヤ/キリスト教的な引用かどうかについて言うと、僕は物語の宗教的な背景について考えたことがありませんでした。『セールスマンの死』でも『みんな我が子』でも、ユダヤ人一家に生まれ育ったミラー自身の価値観がテキストの中にちょこちょこ現われているのかもしれませんが、結局のところ、ユダヤ人やキリスト教徒でなければ理解できないようなことがらを書いた作品ではないと思います。ミラーが書いたのは現代を生きるすべての人々に起こりうる悲劇です。」
広田「そう言えば、どこだったか覚えてないんですけど、稽古中、俳優さんがある台詞を言いながら十字を切ったら、『そこまでしなくていいのでは』というノートが出て、シンプルになった箇所もありました。こういう戯曲では結局、日本語で演じる俳優さんも、自分はキリスト教徒やユダヤ教徒を演じている、さらに言えば、アメリカ人を演じているという意識すら、あまり持たないものではないでしょうか。お客さんが物語のなかに見出そうとするのも、特定の宗教を信仰する人々や特定の国に暮らす人々の人生でなく、お客さん自身の人生ですよね。」
曜子「敦郎さんのお話しにあった、リンゼイさんが十字を切らないでとおっしゃったのは、ケイトの、『神に感謝ね』(Thank God)でした。メモリアルの木に向かって十字を切ると、ラリーは死んでしまっていると思っている人のジェスチャーに見える、と。」
広田「あー、そこでした。いい加減なことでごめんなさい。もっとちゃんとしたノート、人物の物語が明確になるノートですね。」
曜子「原文のGodとかJesusの訳し方は、ぜひ諸先輩方にもたくさん聞いてみたい!GodとかJesusという存在と自分との距離感なんですかね。」
広田「もちろん、宗教的なことがらや、上演される土地には存在しない文化について、しっかり検証して再現しなければ成り立たない芝居もたくさんあります。たとえばトニー・クシュナーの『エンジェルズ・イン・アメリカ』はそうでしたし、今度上演するトム・ストッパードの『レオポルトシュタット』もそういう戯曲だと思います。人物の信仰が作品を理解する上で大きな意味を持つ場合、俳優さんもお客さんも、その信仰と似たものを自分の人生や自分が暮らしている文化のなかに見つけ、腑に落とす作業をするんだと思います。なので、俳優さんが演じる人物の信仰心と照らし合わせて、特定の台詞がどんな意味を持つのか、共有していくことが大事になります。以前訳した『るつぼ』はそういう作業が多めに必要とされる戯曲かもしれません。それにしても、稽古場で演出家や俳優さんと信仰に関することを話した記憶はあんまりないんですよね。むしろ作品の肝はそこにはないというのが実感です。でも僕は、宗教観の違いが外国の戯曲をうまく演じられない/理解できない口実とされる風潮に、昔から強い反発を感じているので、バイアスがあるのかもしません。」
「善き人間」ってなんですか?
キウチ「広田さんが訳した日本語からは、時々、精神のスケールを感じさせる台詞が聞こえてきました。例えば『善き人間』という訳語がそれです。『良い人』でも『善人』でも良さそうなのに、あえてそうしているのだろうと思いました。」
広田「『善き人間』というのはクリスが二度(隣人のスーも一度)言う台詞ですね。大仰に聞こえるかもしれないとわかっていながら選んでみた言葉です。英語では ’be better’ というシンプルな表現で、『よりよくなる』としか書いてないのですが、クリスという人物は理想主義者で、彼の戦争体験から得た教訓、思い描いたあるべき世界を語る言葉なので、ここでもちょっと硬い訳語を当ててみてもいいかなと思いました。 ‘better’ だから、ほんとは『より善き』とすべきなのでしょうけど、『より』をつけると日本語だと弱く感じるのではないかなと思って、単純に『善き』としました。言葉の硬さと『より』をつけるつけないについては、自分のなかで賛否がないわけではありません。最近ほかのかたが訳されたときにはどうしたのか気になるところでもあります。」
『るつぼ』にもよく出てくる、’good’という単語
広田「あと『善き』というのは、実は以前に『るつぼ』を訳したときにたくさん使った言葉でもあります。『るつぼ』には ’goodness’ ‘good man’ ‘good woman’ ‘goodwife’ ‘goody’ など、’good’ という言葉がやたらと出てきます。これをどう訳すかって翻訳者によっていろいろなんでしょうけど、僕はこういうシンプルな言葉はなるべく工夫しないで訳すのがいちばんいいと思っているので、入れられるかぎり『善き』という言葉を入れて、たとえば ‘goodness’ は徹底して ‘善きもの’ としました。人間が善き存在であるためには何が必要なのかという根源的な問いかけが『るつぼ』以前からあったのだと考えました。というか、どんなお芝居もある意味そうですよね。」
※るつぼ(The Crucible)
アーサー・ミラーによる戯曲。1953年ニューヨーク初演。全4幕。舞台は1692年、北米大陸北東部のマサチューセッツ州セイラム。森で少女アビゲイルらが黒人奴隷ティテュバと全裸で踊っているのを牧師が発見する。その牧師の娘が意識不明になり、少女たちはティテュバが悪魔を呼んだと証言する。村に魔女裁判が巻き起こり、無実の人々が次々と逮捕、処刑されていく。その渦中、妻帯者であるジョンに恋心を募らせていたアビゲイルは、ジョンの妻を魔女として告発する。ジョンは裁判でアビゲイルと対決するが、不倫関係を口走り、ジョンもまた魔女として逮捕されてしまう。魔女裁判による混乱の果てに、判事はジョンに対し、偽りの告白をすれば処刑はしないと持ちかける。ジョンは偽りの告白をし、供述書に署名する。しかし良心の呵責に耐えかね、供述書を破って処刑台へ上って行く。
キウチ「広田さんのお話、納得できます。そこでしつこく質問します。特定の宗教や信仰に基づかない場合、『善き人間』というのはどういうものだと思いますか?それはこの作品の主題に関わりますか?」
広田「一言で答えるのが難しいですけど、『みんな我が子』第3幕のクリスの台詞でこう訳した箇所があります──
『そこらの野良猫だって打算で生きてる、戦ってる最中に逃げたクズどもも打算で生きてた。死んだ仲間だけは打算がなかったよ。でもいまは俺も打算で生きて、自分に唾を吐いてる。』
原文では ’The cats in that alley are practical, the bums who ran away when we were fighting were practical. Only the dead ones weren't practical. But now I'm practical, and I spit on myself.’ です。
この ’practical’ な人間、実利を取る人間、高い理想よりも目先の利益を優先する人間、打算的な人間というのは『善き人間』とは正反対のものに思えます。だとすれば、高い理想を信じて、そのために自分を捧げることの人間、常に道徳的な正しさを選べる人間をより『善き人間』と呼ぶのでしょうか。ジョーが言うように、人間イエス・キリストではいられない、というのは、実際そうだと思います。いまの世界では人間同士の利害関係があまりにも複雑に絡み合っていて、自分がどんなに正しい選択をしたと思っていても、世界のどこかでツケを払わされる人が存在するわけです。それを考えると、『セールスマンの死』のビフが西部の大平原で馬の世話をしたり、セメント練ったりしているほうがいいと言うのもうなずけます。でもそうやって暮らしている人間なら聖人君子でいられるかというと疑問ですよね。こういう現代社会で人間が経験するジレンマって、いつから大きな問題になって、演劇や文学やその他のアートで取り上げられるようになったんでしょう。それとも現代にかぎらず、歴史の始まりからずっと存在するんでしょうか。」
キウチ「古代なら、自然や運命に抗おうとしたとき。中世なら、神や教会に背こうとしたとき。近代なら、内なる声を聞いてしまったときー」
広田「そういえば、practical(実際的な)の訳語に『打算』を当てたことについて、演出家のノートで、あんまりこういうところで出てくる言葉ではない、というのがありました。なので、翻訳のほうがちょっと収まりがよすぎはしないかと思ったこともありました。お客さんへの伝わりやすさを優先しすぎたのかな、とか、もしかするとクリスの口からあまりすんなり出てこない言葉にしたほうがよかったのかな、とか、俺はこの家でpracticalにふるまうことを覚えたんだ、というアイデアを彼はどの時点で思いついたんだろう、この場でとっさに出てきた言葉なのか、それとも2幕の終わりにうちを出て車でひとっ走りしているあいだに考えたのか、とか。翻訳の反省をし出すといつでもキリがありませんけど、ほかの方々がどう訳したのか気になります。」
キウチ「ほんとにそう。キリがない。でも全部翻訳者が答えを持っていなくてもいいと思いますね。でもまだ聞いちゃいます。アーサー・ミラーには、お金を拝む社会に対して道徳の鏡を向ける意図があったのでしょうか?」
広田「アーサー・ミラーの何がすごいかと言うと、単に道徳的な、社会的な作品を書くのではなくて、小さな人間の感情の機微を表現しながら、大きな社会、政治のことを描く作劇だと思います。どんなによく書けていても、観ている側の感情を喚起しないかぎり、説教くさくて冷たいお芝居になってしまうんですよね。『みんな我が子』の稽古中、演出家がディテールにこだわった読みをしていたおかげで、5秒おきくらいに異なる感情が表現され、くり返し観ているこちらも、これはお芝居だ、これはお芝居だと、自分に言い聞かせないことには、心が吸い取られて憔悴してしまう感じがしました。戯曲もすごいけど、やっぱり俳優さんというのはものすごいことができる人たちだなと思いました。」
キウチ「そう思います。戯曲の謎も答えも、いつも俳優が導き出して、そして背負ってくれています。演出の仕事の本質はその勇気と情熱のサポートだと。」
男たちが信じていたもの
キウチ「今年上演された『THE PRICE』『セールスマンの死』『みんな我が子』の三作の主人公は、それぞれみんなお金や経済に関わる価値観を重んじる人たちですが、これについてはどう考えますか?アーサー・ミラーの主題と言えるでしょうか?」
広田「『みんな我が子』に何らかの信仰について書かれているとすれば、お金に対する信仰ではないでしょうか。自分の訳した作品についてしか言えませんが、多くの人々が、物質的なものごと以外、何も信じられなくなってしまったような世界が描かれているように思います。人間も世界も欲望でしか動かない、しょせんは色と金だろ、という考えが幅を利かせる世界です。すべてが取引や駆け引き、計算や打算で成り立っている。『セールスマンの死』のウィリーは最終的に自分の命と引き換えにお金を手に入れようとします。レストランでハッピーが女性をナンパするシーンも、すべてが取引、という世界を象徴しているように見えます。『るつぼ』にも、経済的に優位な立場を得るために神の名を借り、対立する勢力をおとしめようとする人々が登場します。『みんな我が子』のジョーが罪を犯したのは、もちろん家族のためですけど、結局、戦争も平和も金でできてる、と言い放ってしまいます。一方で、ジョーの息子クリスのように、いや、そんなことはない、人間はもっと善き存在になれるし、世界はもっと善き場所になる、と信じる人々も登場する。ウィリーの息子ビフも、父親が信じて生きていた世界に疑問を持ち、外へ足を踏み出そうとします。陰惨な結末を迎える芝居でありながら、同時に未来に向けたヴィジョンも提示されている。『みんな我が子』でも『セールスマンの死』でも、主人公に対して当たりの強い訳し方をした自覚がありますが、情け容赦なく訳せるのも、こういうポジティブなヴィジョンや、人物の滑稽な部分や愛すべき部分がしっかり描かれているからかもしれません。」
ミラーを訳して感じたことは?
曜子「ショーンさんが、『セールスマンの死』のお稽古始めに、アーサー・ミラーの芝居を見ると、環境も構成も全然違うのに自分の家族を見ているように感じる、と。人間を丁寧に描いてる、ってことですよね。今年の三作品すべてを通じてそれを感じることができました。」
広田「『みんな我が子』のチラシビジュアルは、最初、なぜこうしたのかしら、と思ってたんですが、これは知らない人にとってネタバレにまったくならなくていいですね。僕自身が『社会派の悲劇』みたいなステレオタイプに囚われていることを恥じました。『普通の家族の話』感で悲劇をまったく匂わせなくて、実際の芝居も、堤さんを中心にみんなコメディの部分をうまくわかってつくっているのが好きです。たとえ知っている話だとしても、始まりをできるだけゴールから遠いところに設定するのは、お客さんを楽しませるための基本だと思います。終幕2分前、ジョーが出頭するために『ジャケット着てくる』と言って退場するところでも、本を普通にちゃんと読めば当たり前なのですが、まさか命を絶つとは匂わせない感じで、そこですでに自殺するつもりだったのか、家に入って衝動的に銃を取ったのか、わかりません。こういう作品でお客さんを『楽しませる』という言い方は不謹慎と思われるかもしれないけど、これで『楽しませる』ことを怠ったとしたら、この物語で世界を変えようとしたアーサー・ミラーの情熱を裏切ることになると僕は思います。」
仲間へのリスペクトとハラスメントのこと
キウチ「最後に、多くの外国人演出家の通訳を務めている曜子さんにうかがいます。稽古場におけるリスペクトとハラスメントの問題です。演出の方法はもちろん、おそらく日本よりも早くから、あるいは深いところで、もしくはもっとシビアに、人種や性差の問題に取り組んできた海外演出家からなにか感じることはありますか?」
曜子「Me too運動が盛り上がりだした頃、まさにMe too運動で立場を追われてしまった方とロンドンでお話しする機会がありました。真相は藪の中。でも火の無いところに煙は立たないよね、その時の私の率直な感想です。私がこれまで創作の現場をご一緒した演出家の方々は、タイプは違えど、必ず俳優さんやスタッフさん、一緒に作品を創る仲間達へのリスペクトがあると思いました。そしてそうすることが良い作品を生む、とわかっている。これに外れる方っていらっしゃらないような。学校などで具体的な教育を受けているわけではないとしても、アシスタント時代に反面教師となるような演出家についたことがあるよ、というお話はよく聞くかも。アシスタント時代様々な現場を経験し、作品を創るのにベストな環境は何か、ということをしっかり体得しているんだと思います。演出家の仕事はマネジメントだ、とおっしゃる方もいました。俳優さんにとっても、スタッフさんにとっても、ベストな仕事ができる環境をつくり、1人1人をよく見て知ってマネジメントする、ということなんですね。」
キウチ「ありがとうございます。一緒に創る仲間たちへのリスペクトは良い作品を生むための大前提だとみんながわかっている−このことがすべてのような気がします。広田さん、曜子さん、すでに新たなクリエーションに着手されているなか、アーサー・ミラーをめぐる翻訳の話、ありがとうございました!」
noteにはトランスレーション・マターズの有料記事もあげています。
2021年に行われたトークセッションのテキスト編集版
「AT19:00 戯曲翻訳(の話)をしよう」
各回1人の作家をめぐって、戯曲翻訳者たちが自身の翻訳と演劇について
語っています。
①サイモン・スティーヴンス編
サイモンからの特別メッセージ/『ポルノグラフィ』二つの翻訳比較/『Birdland』の稽古場で など
出演:小田島創志 髙田曜子 広田敦郎
サイモン・スティーヴンス(特別出演)
小川絵梨子(司会)
②テネシー・ウィリアムズ編
常田景子さんの翻訳の話/テネシーと源氏物語/『花散里の君』とは など
出演:常田景子 広田敦郎
髙田曜子(司会)
③トム・ストッパード編
『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
『良い子はみんなご褒美がもらえる』『アルカディア』
『コースト・オブ・ユートピア』
出演:小川絵梨子 常田景子 広田敦郎
小田島恒志(特別出演)
小田島創志(司会)
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