必ず還る。
事実を主にしても、私は小説を書いている。
吉村昭
「塩焼き」と「お舟様」を軸に、一人の少年の目を通して、
とある村の顛末を描く小説。
面白いですかと聞かれて面白いとは言い難く、では昨今流行っている嫌ミスの類かと問われたとてそうとも言えず、だが、読後感は良くはない。
ただ、彼らの生き様にどうにも囚われて仕方がないとでもいえばいいだろうか。
私にとって吉村昭は、気を許すと精神的な彼岸に掻っ攫われてしまう作家だ。
なんといっても吉村昭最大の特徴は、感情の一切を排除し、 淡々と述べる筆致。 そして、丹念に丹念を重ねた緻密な取材をベースに、事実の中から小説を燻し出すところ。
この小説もそうやって燻し出されたものだが、私には、その淡々とした文字と文字の間の其処此処で、波が激しく岩肌に打ち付けた時の水しぶきのように、繰り返し繰り返し、彼らの迸る感情、叫びが終始こだまして仕方がなかった。
私は、この村の風習を、仕来りを、
「個」を潰すことを厭わない主人公伊作をはじめとする人々を、忌み嫌うことができない。
その村の倫理観を、一概に外野から一方的に責めることができない。
確かに彼らが行なってきたことは、周到に計算された大規模な計画的犯行である。決して許されることではない。
しかし、そうでなければ生きていかれない。
飢えて死ぬか、過酷な労働で死ぬかのどちらかしかない状況で、
生きるということはこんなにも切実で、凄まじかったはず、なのだ。
選択肢のほぼない狭い狭い世界でその生き方を選んだ彼らを、
その価値観を、責めることのできる人なんているのだろうか。
それに、現代の私たちにだってそういうことは儘ある。
どうやって生きてくればそんな価値観になるのだろうかと
まるで理解ができない人に出会うことがある。
しかし、逆にそちら側の人々からすれば、私だっておかしな価値観の人間なのだ。
映す鏡と時代が違えば、価値観なんぞいとも容易くひっくり返る。
彼らは、犠牲の上にある、恐ろしいまでに統制のとれた、
狭い狭い共同体の中で肩を寄せ合い、生きていく。
私はその鈍色に光り輝く彼岸を、仄暗い此岸から見つめては、
自分のいる場所はこちら側でなければならないし、
これでいいのだと言い聞かせ、此処に踏みとどまり続けた。
かつての私たちはただ「生きるために生きて」きた。
生きることに意味なんてなかった。
物語の彼らもまた、この世に生ける生き物たちと同じく、生を全うしていただけであった。
しかし、その代償は大きすぎた。やはり因果応報はあるのだ。
いや、人間にだけあるのかもしれない。
その、因果応報とやらは。
とすれば、今私たちが連日払っているその代償は、一体何の因果なのだろう。
たった232ページながら、貧困、人間の生と業、因果応報、
無知…などが詰め込まれた1冊。
1982年の小説が、現代に問いかけるものは途轍もなく重い。