【車いすユーザーが情報発信したい】2024年を見る
まずはあけましておめでとうございます。
皆さんの1年が良いものになりますように。
今年もよろしくお願いします。
年末年始の9連休があっという間に過ぎ、仕事も始まった。
休みすぎてやる気はあまり出ないが・・・。
さて、2024年終盤ではあったが、車いすユーザー目線からの色々な情報発信を目標に掲げて、このnoteをスタートした。
それは、年が変わった2025年も変わらず、いや更に掘り下げて更新をしていきたいと考えている。
少ない需要であっても、情報を必要としている方に必ず届けたい。
過去の私が迷っていたように、きっと誰かも迷ったり悩んだりしているはずだ。
決意表明はほどほどに、遅ればせながら2024年の振り返りをしていこうと思う。
盛り沢山な1年間ではあったが(笑)、一つずつ紐解いていきたい。
12時間の大手術
これ無しには2024年を語ることができないと言っても過言ではないだろう。
前回の記事にて、神経因性膀胱の悪化・人工膀胱の造設、左腎臓の摘出手術を行ったと記していたかと思う。
最初に結論から言うと、排泄コントロールがかなり快適になった。
人工膀胱は様々な方法を用いられることがあるが、私の場合は、お腹周りの脂肪が多い(先天的に脂肪変性が多い)ため、第一選択であった膀胱瘻は却下された。
じゃあどうしたの?という話になるが、回腸導管造設術という方法を用いて、人工膀胱が作られた。
何か特別な機械を使い管理するのではなく、自分の腸や尿管を直接おなかの外に出して、便や尿の新しい排泄の管理になります。
手術はもちろん体に大きな負担がかかるし、かなり傷も大きく痛みが伴うため、『やっぱやめとけばよかったかな・・・』なんて麻酔が切れかけのふわふわした頭で考えたりもしたが。
大きい方以外でのお手洗いへ行く回数も減り、最初こそ切り離し=装具からウロバッグとの接続を離して過ごしていたが、切り離すよりもウロバッグへ尿を流していった方が、私もお手洗いへ装具の中身を捨てるという行為の負担も減り、面板の溶けも減ったように感じている。
ウロストーマの詳細は説明するとかなり長くなってしまうため、役に立つようなホームページを上記に引用しておく。
今では上手く使いこなし、生活を快適に送ることができているが、やはり手術した当初はかなり苦戦した。
前回の記事にも少し触れていたとは思うが、相性の良い装具を見つけることが一番難しかった。
従来、相性の良い装具であれば2~3日は持つはずだが、私の場合は何をしても1日と持たず面板(粘着部)が溶け、横から漏れてしまったり、装具についている袋(パウチ)があり得ない場所から裂けていたりした。
かなりメンタル的にもやられてしまって、看護師さんたちは嫌な顔せず対応してくれていたが、私はどんどん自分への価値を見出すことができなくなってしまっていた(1か月の入院でずっと続いたため)。
『この病室から飛び降りることができたなら・・・』
ふと、そんなことが頭によぎるくらいには参っていたのだろう。
それでも、パートナーと毎日1~2時間ビデオ通話をしたり、同じ病室で入院していた年の離れたお姉さんと仲良くなってLINEを交換したり、術後1週間ぶりに食べるご飯が美味しかったり、コンビニで本を買ってみたり・・・日常のような非日常があったからこそ何とか退院まで過ごせたのだろうと未だに思いを馳せる。
結局のところ、相性の良い装具は入院中には見つからず、そのまま退院してしまうことになるのだが、自宅に戻っても1日ですぐに交換しなければならないほど漏れがひどく、身動きが取れない状態が続いた。
しかし、もう体はどん底まで落ちたので上がっていくしかない。
自分のことは自分の力で切り拓いていく。
そんな気持ちに目覚め、急いでストマ外来を予約し、船に飛び乗って出かけて行った。
診察中、ストマ専門看護師さんが色々なものを試しながら考えてくれた。
そして現在まで使うことになったものが、センシュラミオコンベックス(ウロ)というコロプラスト社のものだ。
面板の柔らかさや形状、パウチ(蓄尿する袋の部分)の形状まで、本当に様々なものがある。
それが自分の体にしっくりくるものを見つけるまでがかなり骨が折れる。
初回のストマ外来でセンシュラミオコンベックスのディープ(面板が硬いもの)を見つけ、ずっと使用していたが、もちろん人間日々体形の変化がある。
引越し先でのかかりつけ病院のストマ外来で、専門看護師さんが『もしかしたらたかーなさんはもう少ししなやかなものが合うのかも・・・』と更に掘り下げて探してくださったのである。
それが現在使用している、センシュラミオコンベックスのライトだ。
ディープよりも面板がしなやかで柔らかく、腹部の形状にぴったりフィットしてくれる。
週2回程度の交換、たまにある皮膚トラブル(肌が激よわなので・・・)、装具やはく離液の在庫管理など、やらなければならないことは割とあるが、それを上回るほど快適で自分らしく生きることができている。
1年を通して、手術してよかったとはっきりと言えることだ。
第一選択としては体の構造も大きく変わりリスクこそ多いため、この方法を真っ先に選択することはおすすめしない。
あくまでもいち個人のとった方法であり、人それぞれ適した方法を選択してほしい。
地元を出て、都市部へ引越し
これは小見出しのタイトルそのまま・・・(笑)。
私の生まれ育った場所は、いわゆる離島だ。
町や村という自治体の規模ほど小さくはないが、島は島。
島で最大級の総合病院がうまく機能していない(特に先天性希少疾患持ちの私からするとかなり感じる)、公共交通機関が段差の大きいバスだけ(つまり車を所持していないと外出が難しい)・・・etc。
元々、島を出ることは私の人生設計の中にあった。
島を出て、フルリモートの仕事を続けながらバリアフリー化の進んでいる都市部で生活しようと考えていたのである。
実家にいながら、月1回か2回しか外に出られるか分からないような環境下。
両親やきょうだいとは仲がいいとは思うが、どうしても干渉はあり、20代半ばを過ぎた女性として、自立をしたいという気持ちが強くなっていた。
手術を終え、体調も落ち着いたころ、パートナーとの間で同棲の話が持ち上がっていた。
私が住みたい場所とパートナーの住んでいる場所が一致していたため、その話には躊躇は無かった。
ただ、どうしても避けられないのが、両親の反対だ。
私を危ない目にあわせたくない、心配してしまうから、目の届くところに置いておきたい―――そういった気持ちは理解できたが、1人の女性としても、人間としても、自分で一度は決断して何か行動したいと強い気持ちが生まれた。
(今思えば反抗期のような心情であったな・・・と思ったりもする)
決定的な事件が起き(解決済なためあえて書かないが)、家探しも途中のまま、実家もとい島を飛び出る決心をしたのだ。
パートナーも器が大きく・・・寝具一式を買って用意してくれていたのだ。
そしてこういう事情だから、とパートナーのご両親にも説明してくれており、家が決まるまで実家でお世話になることになった。
必要最低限の荷物を家族の居ぬ間に発送し、住民票を移しに役所へ行き、その足で空港へと向かった。
そして、夕方の便で発ったのであった。
何だ、この行動力は。
当然だが、書き置きだけを残し家を出たため、家族内では家出したと大騒ぎになっていた(それはそう)。
ただどうしてももう譲ることはできないと、自分の力で切り拓いていくと決めたと、時間をかけて話をして、今では認めてくれている(はず・・・)。
暴走を反省したが、後悔はしていない。
一人の人間として与えられるべき”自由”を失いかけていたのだから。
家でひとり部屋に籠って仕事をして本を読みゲームをして眠る。
そんな毎日を繰り返して人生を終わらせたくはなかった。
友人たちが前向きに生きていく姿に憧れたし、一度人生のどん底を見たからこそ後悔はしたくなかった。
過去や未来をどうにかすることなんてできない。
しかし、生きている今を変えることはできるはずだと今でも信じている。
その先に未来が続いていくはずだから。
今は生きていること、当たり前に生活を送れていることが一番楽しく、派手な生活なんて夢を見てはいない。
ただ自分たちで作り上げていく何でもない日常が、特別で愛おしい。
メンタル系の疾患が発覚
自分でも、昔から不思議な感覚に陥ることは度々あった。
幼いころから感受性が高く、どこか思考が大人びていたと思う。
それが理由になるのかは今ではもうわからないが、不安や恐怖をとても感じやすい子どもであった。
成長してもその特性がなくなることはなく、思考が大人になっていくほど、不安の種があちこちに広がっていくように感じた。
漠然とした不安が長期間続いていく。
日常の何でもないこと全てが、不安を引き起こすトリガーだった。
『心配性が過ぎるだけであろう』と見ないふりをしていた。
それも、怖いから見ないふりをしていただけだ。
前職ではミスが許されない環境下で、さらに慎重さや恐怖、不安が加速していった。
4年近く従事していたが、リラックスしてのびのびと働いた感覚は一度もなかったように思う。
ある日を境に短時間しか眠れない・頭痛が激しい・何でもないのに泣いてしまう・上司への提出物がこの世で最も恐ろしく思える等、側から見れば異常とも思えるくらいに精神的に限界を迎えた。
仕事へ向かうこともできなくなり、退職を余儀なくされた。
コロナ禍が落ち着いたとはいえ、まだまだ自由に出かけることが難しかったためオンライン診療で、心療内科を受診した。
(島には心療内科がないため・・・)
適応障害として診断され、眠剤(エスゾピクロン2mg)と抗不安薬(メレックス0.5mg)と抗精神薬(名前忘れました・・・)が処方された。
ずっと飲み続けていたが病状としては改善することもなく、診断名も適応障害のままだった。
転職や病気、手術や引越しを経て、かなり調子が悪い状態が続いた。
パートナー(同じく精神疾患あり)から、心療内科をあらためて受診することを勧められ、現在の心療内科へ辿り着いた。
改めて受診すると診断名は全般性不安障害。
(分かりやすいページを埋め込んでおく)
抗不安薬(メイラックスを1日3回0.5mg,0.5mg,1mg、頓服としてロラゼパム0.5mg)、抗うつ薬(サインバルタを40mg、ミルタザピンを15mg)、眠剤(エスゾピクロン2mg)と、薬の調整もしっかりしてもらうことができた。
全般不安障害は私の症状とかなり一致するところがあり、ほぼ間違いないだろうとのことだった。
今の主治医は薬だけではなく、考え方のクセなどを変えるよう促してくれたり、話を聞いて褒めてくれたりするとても優しい先生だ。
いつも、『たかーなさんは客観的に物事を考えることができるから、自分のこともよく見てダメなところを見つけるのではなくて、良いところを褒めてあげられるようになるといいね』と言ってくれる。
すごく頑張り屋さんだとも言ってくれるのだ。
私は気がつけば誰かに褒められたことはなく、障害があるからこそ強く逞しく生きていかなければならない、ちゃんとすることが当たり前という固定概念がガチガチにあったと思う。
パートナーや主治医との出会いで小さなことでも褒められる嬉しさや、誰かといることの安心感を初めて知った。
彼に促されなければ心療内科を変えようとも思わなかっただろう。
彼らのお陰で今があり、何気ない1日を生きていられると思う。
小さな波はあれど、うまく付き合いながら生きていければいいかな。
先天性希少疾患の再評価
物心ついた時から検査を受けなくなった。
整形外科へ行くことも減った。
ましてや、島の病院で私の病気の実例などなく、診てくれる先生などいなかった。
神経痛も漠然と治療薬を使用するだけだった。
本土の大学病院も、主治医が高齢になり引退し、受診すること自体疎遠になっていった。
しかし、大人になった今。
一つの疑問が浮かんだ。
"成長して、今の状態やこれからのことを誰が教えてくれるのだろう"
体の状態は、自分は管理はできても病状までは把握できない。
専門的な医師により、診断がつくのだ。
こう考えると居ても立っても居られず、片っ端から受診してくれそうな病院を探した。
住んでいる地方で一番大きい規模の大学病院の小児科内にて、先天性疾患の患者を次のステップに繋いでいくことが目的の外来があった。
トランジショナルケア外来だ。
トランジショナルケア外来は、成人期に達した小児慢性疾患患者さんの成人科への円滑な移行をサポートすることを目的として、2014年4月に国内で初めての専門外来として開設されました。
トランジショナルケア外来にて、予約を取り先生へと相談する。
どれが一番最優先事項なのか、優先してフォローしていくべきか、先生と患者と一緒に整理していく。
私の場合は、まず整形外科分野でのフォローが必要だと決まり、現在も定期的に整形外科での診察を受けている。
MRIやレントゲンでの画像診断をし、現在どんな状態なのかを把握できたのでとても良かったと思う。
拘縮が進んでいたり、脱臼していたりするため、リハビリの介入も今後行われることになった。
自分で調べて突き進むことは、時にしんどいことも多いが、私は私にしか分からない。
だからこそ、そこまでするの?と言われるかもしれないが、後悔する前に行動する。
二度と、手遅れにならないように、自分の体は自分できちんと管理をしていきたいと考えている。
パートナーと猫2匹の暮らし
元々、パートナーは猫1匹を飼っていた。
(職場の野良猫を拾ったらしい)
キジトラでとても美しい女の子だ。
私にはツンデレなのだが、寝る時には必ず私の布団の中に入ってくるし、しんどいときには側にいてくれるとても優しい子である。
結婚を機に、ペット可の物件へ引越したのだが、1匹じゃお留守番は寂しいのかな、なんて話していた。
実際のところ、翻弄されまくっているが
縁があればもう1匹迎えたいねと言ったタイミングで、私が独身時代からお気に入りの保護猫カフェへ行った。
(パートナーとも行ったことがあるほど)
そこで1匹だけパートナーから離れようとしない子がいたのである。
遠くへ行こうものならついてくる。
しまいには、私の車いすを占領していたり。
どうしてもこの子を放っておけず、私たちはその場でトライアルをお願いした。
トライアルはというと、先住猫と新入り猫との慣れ期間だったように思う。
最初は先住猫がかなりシャーシャーで、新入り猫もウーウーと唸っていた。
子猫なのに大したものである。
私たちは頭を抱え、トライアルやめようか?とも話すくらいには仲が悪かった(笑)
しかし、トライアル終盤にさしかかるころ、2匹で追いかけっこをしたり、眠ったりと、まだぎこちなさはあれど、徐々に距離を縮めているように感じた。
そのため、トライアル終了後、正式に譲渡になり、私たちの家の子になったのである。
現在はというと、去勢後かなりやんちゃ度があがり、先住猫へちょっかいばかりかけているトンデモ猫に成長している(笑)
先住猫へストレスがあまり行かないように上手いこと分散させつつ、2匹とも大切に育てている。
こどもが生めない私たちの元に、訪れた2匹の猫がとても愛おしい。
最後に
かなり長くなってしまったが、2024年は色んな経験値が上がった年だったように思う。
あっという間に過ぎていくからこそ、大事に1日を毎日過ごしたい。
後悔せずに、はきっと難しいが、自分のやらねばいけないことはまだ沢山あると思う。
それを見つけ出す旅を、2025年もまたできればいいだろう。
新たなことを沢山知り、生きていく。
また新たな扉を開いていこう。