見出し画像

日本社会を象徴する「排除アート」

昨夜、録画してあったNHKのドキュメンタリー番組を観て、
「排除アート」というものの存在を知りました。

厳密に言えば、以前からその存在を知っていて、
胸騒ぎはしていたものの、
そんな名前がついていることを知りませんでした。

「排除アート」って、なんだと思いますか?
誰もが知っているいちばん典型的なものは、公園にあるベンチです。
あれ、だいたい今は手すりのようなものがついていて、
ひとりぶんのスペースごとに区切られていますよね。

あれです。

あの手すり、もちろん、
ひとつのベンチにちゃんと三人腰掛けられるように、
というように、マナーを守った使い方を促す役割もあるでしょうし、
お年寄りなどが立ち上がるときに、
文字通り手すりとして使う、ということもあるでしょう。

しかし、その本当の目的は、「ホームレスの排除」ですよね。
要は、ベンチで人が寝られないようにする、ということです。
それが目的の「ひとつ」ではなく、
それこそがど真ん中の目的だと思うことには理由があります。

それが「排除アート」という言葉に秘められていると思うのです。
もちろんその名前は後付けでしょうけどね。その名前の構造に、です。

「排除」と「アート」という
水と油のようなものをワンセットにすることで、
「排除」という狙いをぼやかすわけですね。隠しているのです。
この「アート」という言葉の役割をするのが「マナーを守った使い方」や、
「お年寄りのための手すり」という大義名分なのです。

これがあれば、「排除が目的ですね?」と言われた時に、
「そんなこと、考えもしませんでした」と行政は居直ることができる。
これが、今の日本人の思考回路であり、やり方なんですよね。

排除アートにはベンチの手すりの他にも、地下鉄の通路や、
橋の下、高架下など、人が雨露をしのげそうなオープンな場所に、
いかにも景観を良くするため、というような顔をして、
人を近づけないようにするオブジェが置いてあります。

普段はわからないのです。
だって、そこで段ボール広げて生活しようなんて思ってないですから。
でも、そういう視点で観てみると、たくさんあるんですね。排除アートが。
それは「ここに来るな!」「でていけ!」というメッセージです。

人間から人間への、排除のメッセージ。
お前は除け者だ、邪魔者なのだ、というメッセージです。

私の家の近くの橋の下にも、これは遅らく無断駐車を防ぐためでしょうが、
とても広々としたスペースがあるのに、
そこに異様なまでにガードレールを設置していて、
「ここに停めるな!」という
無言のメッセージを放っている場所があります。

そこを通った時、なんとも知れない胸騒ぎがしたんですよね。
それは、同じ人間を、同じ日本人を(日本人でない場合もありますが)、
自分に迷惑をかける邪魔者、と決め付けて排除しようとする圧力です。

あるいは車を停めたいのであれば、お金を払って駐車場に停めろ、という
なんでも金の問題にしようとする現代日本人の狭量な精神ですね。
そういうものを感じてしまう。

そうすると、本当に「こんな国、いやだ!」と
心の底から叫びたくなるのです。

冒頭のドキュメンタリーでは、
公園の近隣の人々のインタビューがありました。
みな、口を揃えて「ホームレスがいなくなるのはいい」と言います。

ベンチを作っている人にインタビューすると、
「ホームレスではない人の安全を守る必要がある」と言います。

私は、いつなんどき、自分もホームレスになるかも知れないと思いながら
毎日、なんとか暮らしているので、
ホームレスになってもちゃんと生きていける社会であって欲しいし、
もっと言えば、路上生活者の問題は、
路上生活者をそこから排除することでは
決して解決できないと思うんですね。

これはテロリズムの撲滅も同じですが。
テロリストを捕まえて処刑したところで、テロはなくならないでしょう。
根本の原因が存在しつづけるからです。

なんでもメカニズムは同じです。

なぜ路上生活者になってしまうのか、なぜホームレスは生まれるのか。
その部分の問題を解決しなければいけないし、
そこが解決されれば、そもそもホームレスはいなくなる。

ですよね?

それに、ベンチというのは公共のスペースにあるのだから、
天変地異とか、突然人が倒れるとか、そういう有事の時に
簡易ベッドになるという役割もあるはずなのに、
人が寝転べないようにするというのは、
大きな意味で社会にとって損だと思うんですね。

問題を見えなくすることで目を逸らすというのが、日本人の悪い癖です。
そしてそれこそが日本人の失敗の法則です。

それをエントロピーで例えてみましょう。
もし机の上が汚くなった時、つまりエントロピーが増大したときですが、
机の上にあるものをすべて床に落として見えなくしてしまえば、
一時的に机の上はきれいになります。エントロピーが減少します。

でも、視点を部屋にうつせば、それは机の上のゴミを床に移動しただけで、
実際には何も変わっていないし、解決していませんよね。
それと同じです。

ホームレスの人を公園から追い出したところで、
社会課題は解決していません。
それは明日はあなた自身がホームレスになるかもしれない、
という課題です。
「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉は、
よく金持ち連中の強欲な価値観として取り上げられますが、
実は庶民だって同じなんですよ。

将来、金がなくなり、自分もホームレスになることは考慮していない。
だから他者を排除することに鈍感になってしまうんですね。
「今だけ、金だけ、自分だけ」の反対後はひとこと「寛容さ」です。
いま、日本人に必要なのは、他者への寛容さに他なりません。

NHKの旅行番組でヨーロッパの街を見ると、
運河などに柵がついていないことに気づきます。
私の住んでいる街は埋立地なので運河だらけなのですが、
当然、柵だらけです。

これ、もちろん安全対策なのですが、
行政の人たちは私たちの身の安全を守ろうと思っているのか、
それとも住民からのクレームが嫌だからなのか、ということが
私はとても気になるんですね。

最近、町内会の会合に出ることもあるのですが、
町内の児童公園ではサッカーをやっていいのか、野球はどうなのか、
ダメならそう書いておかなければ、などと真剣に議論しています。

すべては「クレーム」が根っこにあります。
人と人が向き合って直接対話する文化があれば、
注意書きなんかなくてもその場その場での状況で
サッカーもやれるだろうし、
サッカーがやりたくても、小さい子がいるから今はやめよう、という判断が
子供たちにだってできるようになります。

でも、人と対峙するのが嫌だから、お上にルールを作らせて
「ここではサッカーは禁止だぞ!」と言うわけですね。
街の何気ない景色ひとつをとっても、
今の日本人のクレーム体質、心の狭さ、寛容さのなさを感じるんですね。

そうすると、ヨーロッパの街並みの美しさって、
ただ景観として美しいのではなくて、
そこに暮らす人々の心や意識が街の姿に反映されていて、
それに対して美しいと感じているんだな、と気づくんです。

日本の街はパッと見はキレイだけど、
人間味がない。味気ない。魅力がない。
それは現代日本人の心を反映しているからだと思います。

他の人から見るとどう見えるかわかりませんが、
私は、自分では人権擁護派だと思っています。
どちらかといえば、リベラルだと。

でも、同時に、ものごとはバランスがだいじだとも思っています。
リベラルが「正しさ」を振りかざして暴走するのを見ると胸騒ぎがします。
それはジェンダーなんかに関してもそうなのです。
非常に言いにくいですが・・・

ひとつの思想だけに強烈に囚われている人を見る時に、
その攻撃性に胸騒ぎがするのです。
たとえ、その考え方が、自分の正義感と合致していたとしても、です。

そう考えていく時、
ときどき自分は全体主義者なのか?と思ってしまうことさえあります。
保守と名乗る人の気持ちがわかるときもあるからです。

思うに、個人主義と集団主義はどちらか片方ではなく、
ときと場合によってバランス良く
それぞれの長所を活かし合うのがいいのでは?
と私は思っているんですよね。

最近、よく言われるポリコレの主張は、暴力でもあると思っています。
弱者の概念にもステレオタイプは存在するし、
そのバイアスによって社会そのものが抑圧されていくことは、
正解とは私には思えないんですね。

そういう場面でも、やっぱり「対話」をしていくしかないと思うのです。
実際に社会の弱者はいっぱいいます。健常な男の中にも弱者はいます。
誰が彼らの存在を救済しますか?

誰がどう弱いのか、ということも含めて、
やはり人間は「対話」するしかないのです。

対話というのは相互理解の試みであり、
第3の解決策の模索であるわけですが、
それは実は、突き抜けた意見を中和するプロセスに他ならないんですね。

そのためには、「なぜそう考えるに至ったか」を探り当て、
そこを互いに理解し、共有する必要があるわけです。

「なるほど、君の気持ちはわかったよ」ということを
互いに見出すわけですね。

ですから、もちろん、突き抜けた意見というのはあっていいわけです。
自衛隊違憲論も存在すべきだし、
天皇制に反対する意見も世の中には必要なのです。
意見を持つことは非常に大切だし、また意見や思考を持つことは、
そもそも誰にも止めることのできないものですからね。

それぞれの意見を心の中で思っているだけなら、いくらでも自由です。
しかしその意見を表に出して行動を伴う場合は、
それは他者が絡んでくるので、なんでも自由というわけにはいきません。

そのとき、どちらか一方が完全に正しいということは
あり得ないわけなので、
やはり互いの存在を認め合えるところまでお互いに意見を中和し、
敵対関係や分断関係を終わらせるしかないんですよね。

今、社会は「アンコンシャス・バイアス」というところまで行っています。
これは無意識化での差別意識のことです。
差別は、差別を感じた人が「差別だ」と言えば、
車の事故はいつでも運転者側に責任があるように、
差別を感じさせた側が悪いということになります。

それはポリティカルにコレクトとされることなので、
理屈では言い返すことはできず、罪を受け入れるしかないのです。

でも、どうなんでしょうね。

こうなると、もう思想のコントロールなのではないか?と
私は思うのですが、
無意識の人への対応なだけに、少しでも意識を保とうとすると、
もう息苦しくて生きた心地がしないのです。

まったくリラックスできず、こんな暮らしの中に
Well-Beingなど到底、存在しないだろうと思えてしまいます。
私は毎日がとても苦しいです。
誰かのポリティカル・コレクトネスに抵触していないかを意識することが。

こんなに苦しいなら、いっそ誰にも迷惑をかけないように、
山の中でひっそり暮らした方がマシだとさえ思う時があるんですね。

私は、どんな事柄においても、
どちらかが完全に悪いということはないと思うので、
本気で解決したいのであれば、やはり対話をするしかないと思っています。
解決するには、相手をも味方にしてしまうしかないわけですからね。

でも、この道の先に、人が笑顔で対話できる将来があるのでしょうか。

人間を信じたいし、人間が大好きであり、
人間ほど疑わしく、人間ほど嫌いな存在はない、というのが、
私の偽らざる気持ちです。

が、きっとそのように考えてしまうことも、
私の心中に負の連鎖を生む要因なのかも知れませんね。

自戒をこめて。

いいなと思ったら応援しよう!