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西洋哲学さえ、少し疑う時代が来たのかもしれない
西洋の歴史的な哲学には、
大いなるリスペクトを持っています。
しかし、その上で、やはり人間は
「大きな勘違い」をしていた可能性があると最近は思っています。
「我思う故に我あり」というデカルトの言葉は、
人間は「考えること」を通じて自分の存在を認識するのだから、
考えることができることが存在の条件になっている、
という解釈を可能にし、
それが、人間以外の、恐らく「脳を持たない」生物を
人間とは区別し(それを自然とも言うと思いますが)、
人間は自然を駆逐することができるただひとつの存在であるという
考え方のバックグラウンドを産みました。
デカルト以前のすべての哲学も、
「考える」という点においては共通項を持っており、
人間でない存在が考えている可能性については
認めてこなかったように思われます。
※
それに対して「アニミズム」と呼ばれる考え方は、
人間をことさらに特別視はせず、すべてのものに魂があると考えます。
これを「魂」と言ってしまうと、
とたんにスピリチュアルな領域に入り込んでしまいますね。
非科学的ということです。
なぜなら、科学という分野には客観性が必要であり、
人が感情としてそうだと思う、というような部分は
エビデンスとしては認められないという立場をとるからですね。
それは「感情」などという領域に入ってしまうと
事柄が複雑になってキリがないからだと私は思っています。
西洋の哲学も、科学も、とにかく事柄をシンプル化して、
自分が理解できる範囲の中に事象を規定しようとする
力学が働いているように私には見えているのです。
(それが広範囲であったり、複雑であったりするのですが)
もちろん、様々な哲学者、科学者がいますから、一概には言えませんが、
西洋の考え方の底流にはそれが存在していると私は感じています。
そして、それが必ずしも正しくないのでは? と感じているのです。
最近、このように考える傾向にあるのは、
やはり「数」の概念がないアマゾンの先住民、
ピダハンについて考えたことが大きいのでしょう。
※
私は西洋の哲学を軽んじているのではありません。
しかし、何かの考えを言語化し、形にした瞬間に、
その考えというのは世に生まれるのであって、
そして一度、世に生まれた考えは、その考えがあるからこそ、
その考えが成立するという方向に働く傾向がある。
人間には生まれながらに欲望があるとか、
経済合理的に判断するとか、自分の欲望のために行動するとか、
法と秩序がなければ人は獣になってしまうとか、
そういうことは、私たちが今までの考え方の基に作り上げた
現代社会の中では確かにそのように見えるのだけれど、
果たしてそれが人の生来の姿を本当に表しているのか?といえば、
絶対にそうと言い切れる証拠はないと思うのです。
つまり、そうだと思い込んでいるだけ、という可能性がある。
私はそこに注目しているのです。
例えばアダム・スミスの「見えざる手」は、
市場原理の正当性を解説している言葉として捉えられていますが、
実際にはアダム・スミスはそういう意味で「国富論」を書いたわけではなかった。
けれども「見えざる手」という言葉を得たその他の人たちが、
勝手な思い込みで論理を作り上げたわけですよね。
そしてアダム・スミスを「経済学の父」と呼ぶようになった。
でも、アダム・スミスは経済学のことなど考えていなかったのです。
彼はもっと深く、奥行きのある考察の中でその言葉を出したのだけれど、
他の人たちがその言葉を勝手にシンプル化し、
そのイメージに合わせて実際の市場をシンプル化してしまったわけです。
自分が理解できる「浅さ」で再解釈して、
現実をその通りに合わせてしまった。
例えばここで言いたいのは、
市場原理に任せておけば「神の見えざる手」が
正しい解を導くというのは、そうなるといいな、
と思った人たちが誘導した単なる思い込みであって、
現実ではない可能性が高いということを、
本質に立ち戻って考える必要があるということです。
※
アダム・スミスは例として出しただけですが、
今回、私が提示したいと思っているのはもっと根源的なことです。
それは「人間だけが思考しているとは限らない」ということです。
そもそも人間だけが考えているという思い込みは、
「考える」とは脳だけがやれることだという決めつけから来ています。
そう見えたのは仕方がないでしょう。
人間は現に脳で考えますから。
しかし、「人間が脳をつかって考える」ことと、
「考える機能は脳にしかない」ということは、
必ずしもイコールで結び付けられるわけではないということです。
近年の研究では、
まるで脳のシナプスが情報伝達物質を介して
つながって情報伝達をしているように、
木々が地中で、菌根菌という菌を通じて、
情報伝達をしているようだということがわかってきたそうです。
木は自分の母親の木がどれなのか、
自分の種子から生まれた自分の子どもの木がどれなのかを
把握している可能性があり、
木の種を超えて、遠くの木からの「危険信号」などを受け止め、
情報のやりとりをしているそうなのです。
けれどどうやって?
そう考えてしまうのは「脳だけが考える器官だ」という
人間の先入観によるのであって、
脳ではない部分にも考える機能があれば、
まったく不可能なことではないわけです。
もしそうだとしたら、この世の景色は一変しませんか?
木々は物言わぬ物体ではなく、
私たちとまったく同じように考えながら生きている
この地球の構成要員だということです。
・・・となると、「我思う故に我あり」の根拠は
文字通り根本から崩れ去ることになりますね。
※
例えばこれはまったくの私の空想ですが、
物質をどんどん細分化していくと、最後はこれ以上わけられない、
「素粒子」という粒であることがわかっています。
そして、これらの素粒子が互いにくっつきあったり、
離れたりする性質によって、原子や分子ができあがっています。
ここで私が、さりげなく「性質」と言いましたが、
性質と言ってしまうものは、「なぜそうなのか」という理由がわからない、
ということでもあります。
素粒子同士がなぜくっつくのか。その理由はわからないのです。
例えば、磁石に鉄がくっつくのはみんな知っていますが、
なぜくっつくのかはわかっていないでしょう。
磁力が働くから、ということはわかっていますが、
なぜ磁力が働くのかはわからない。
「そういう性質だ」ということで、それ以上の深掘りはできません。
科学の世界では再現性が重要ですね。
同じ実験をすれば、何度でも同じ結果になるということです。
そうして導き出すのが「性質」なのでしょうが、
なぜその性質になるのかを、究極的に掘り下げると、
理由はわからないのです。
さて、素粒子同士がなぜくっつくのか。
あまりにも荒唐無稽で言うのもちょっと恥ずかしいですが、
もし、素粒子同士が「好き」だからという理由があったらどうでしょう?
原子と原子が固く結びついていて、それを引き離すと
大きなエネルギーが放出されることはご存知ですね。
では、なぜ原子と原子はそんなに強く結びついているのでしょうか?
なぜそのような性質を持っているのでしょうか?
もしかしたら、彼らは、「強く結びついていたい」のかも知れません。
そういう意志を持っている。
その可能性を絶対に否定できる証拠はないのではないでしょうか。
もし仮にそうだとしたら、無機物を含むこの世のすべての物質は、
意志を持っていることになりますし、転じて、考えている、
ということもできるかも知れません。
もちろん、私たちの体を構成する細胞だって原子たちですから、
ひとつひとつがそれぞれに考えていることになります。
けれども、私たちには、それとはちがうレイヤーで
「考える」という作業を行う「脳」という器官があるので、
そのことがまったく自覚できないだけかも知れません。
絶対にそうだと信じているわけではないのですが、
絶対にそんなことはないと言い切れる人は、
この世に存在しないはずだ、とも思うのです。
なぜなら、私が今、言っている領域は、
人間が、今の科学の力で証明できるものではないからです。
科学というものでは永遠に証明できない、と言いますか・・・
スピリチュアルという意味でもなく、
我々が「これが科学だ」と思い込んできたことそのものが、
根っこからちょっと間違えていて、
そのせいで、今の科学の視点からは永遠に見えない、というようなイメージです。
ここでは科学も哲学も、学問として同一線上に扱いましたが、
西洋の考え方の根っこに「思い込み」があったとしたら、
という思考実験だと解釈してくださいね。
※
ということで、最近の私の中では、
西洋哲学は、人間が自分の脳を使って、どこまで深く思考・思索できるか、
という試みとしては大いに意義のあるものでありつつも、
実は、物事の心理を根本から履き違えていた可能性があると
僭越ながら考えています。
もちろんこれは歴史上の、あるいはすべての哲学者や
科学者を冒涜するものではなく、
哲学も科学も、「人間」という視野で
「人間界」に生きる上で非常に有用なことだと思います。
しかし、その「人間中心の思考」ということが、
根本的にちがっている可能性について、日々、考えてしまうのでした。